情緒の純化(判官びいきの熱狂)
第一章 敗北からの逆転劇 ―― エリートの失職
兵庫県政はかつての混乱から一転した静けさを保っているが、2024年から2025年にかけて斎藤元彦氏が巻き起こした「再起の熱狂」は、今も政治コミュニケーションの極めて特異な事例として語り継がれている。
彼の説得力を語る上で欠かせないのは、その輝かしい経歴だ。
東京大学経済学部を卒業後、2002年に総務省に入省。新潟県や宮城県への出向を経て、官僚として地方自治の枢機を歩んできた。
2021年、43歳の若さで兵庫県知事に当選した彼は、まさに「行政のエリート」の象徴であった。
不信任決議可決、失職。誰の目にも政治生命の終わりに見えたその瞬間から、彼はその「特権階級の看板」を自ら脱ぎ捨て、「たった一人の再挑戦」という姿をSNSに映し出した。
マスコミが報じる「疑惑の主」という像は、いつの間にか「巨大な組織に立ち向かう孤独な改革者」という像に塗り替えられていった。
第二章 思考の純化 ―― 疑惑を埋め尽くす「正義」の単純化
斎藤氏が駆使した第一の技術は、多岐にわたる行政上の不祥事や疑惑を、「既得権益との戦い」という極めてシンプルな構図に集約させたことだ。
本来、内部告発への対応や行政運営の妥当性は、官僚時代に彼自身が扱ってきたような、法的な解釈や複数の事実検証を要する複雑な問題である。しかし、彼はそれらのディテールを一切語らず、「改革を阻もうとする古い勢力による執拗な攻撃」という物語一点へと純化させた。
これは、事実を説明するのではなく、事実を「上書き」する技術だ。
総務省時代から培った行政の知識を、疑惑の釈明ではなく「自分がいかに効率的な改革を行ってきたか」という実績の誇示へと転換した。
複雑な現実を捨て去り、一つの「正義」へ視線を釘付けにするその手口は、きわめて鮮やかであった。
第三章 対立の構図 ―― 「加害者」から「被害者」への転換
斎藤氏の説得において最も独創的だったのは、自身に向けられた「敵意」を逆手に取り、対立の軸を鮮やかに反転させたことだ。
当初、彼は職員や議会を追い詰める「加害者」の立ち位置にいた。
しかし彼は、マスコミの報道過熱や議会の糾弾を「不当な吊るし上げ」と定義し直すことで、自らを「巨大な権力に踏みにじられる弱者」というポジションへ移動させた。
ここで、新たな対立の構図が完成する。「真実を隠して一人を叩くオールドメディア・議会」対「真実を知るネット民・孤独な知事」。
この構図は、既存の権威に対して不信感を抱いていた層に強烈に刺さった。
かつて自分を批判していた者たちを「既得権益の守護者」という敵に仕立て上げることで、彼は自らへの批判をすべて「敵からの攻撃」に変換し、無効化することに成功したのである。
第四章 感情の増幅 ―― 「判官びいき」という名の狂熱
斎藤氏が支持者の心の奥底で着火させたのは、怒り以上に強力な「判官びいき」という情動である。
駅前に一人立ち、深々と頭を下げる。
マスコミのカメラに囲まれながらも表情を変えず、淡々と自らの正義を訴え続ける。
これらの視覚的な演出は、エリート官僚出身という「冷徹なイメージ」を、「孤高の苦労人」というイメージに劇的に塗り替えた。
「同情」が「正義感」という免罪符に変換されたとき、人々の倫理的なブレーキは完全に壊死する。
支持者たちはSNSという舞台装置の上で、無意識のうちに「孤独な救世主を支える英雄譚」のキャストを演じ始める。
彼への加担は、既存の権力構造を打破し、隠蔽された真実を暴く「聖戦」として神聖化された。そこでは、客観的な事実よりも、自らが物語の一部であるという陶酔感こそが至上の価値となるのだ。
第五章 鏡の中の「需要」 ―― 聖戦のあとに残る沈黙
思考の純化、対立の反転、そして感情の増幅。これらが共鳴した結果、斎藤氏は勝利を収めた。しかし、この狂乱の果てに私たちが手にしたのは、真の「納得」ではなく、ただ一時的に鬱憤を晴らしたという空虚な「快感」に過ぎないのではないか。
ここで突きつけられる事実は、きわめて冷酷だ。
この騒乱の過程で、当初の問題であった内部告発の正当性や、亡くなった職員への責任といった核心的な疑惑は、何一つ論理的に解決されていない。
大衆が熱狂したのは「真実の解明」に対してではなく、「叩かれていた者が巨大な敵をなぎ倒す」というカタルシスに対してであった。
斎藤氏は、私たちの内側にある「既存の権威を失墜させたい」という破壊衝動と、「物語の主人公になりたい」という承認欲求を完璧に満たしてみせた。人々は、真実よりも「自分を心地よくさせてくれる物語」を求めていたのだ。
第六章 その「正解」は、誰のものか
彼が振るった技術の核心は、自身への糾弾を鏡のように跳ね返し、攻撃者を敵に仕立て上げる「対立の構図」の反転にある。しかし、ここにある種の倒錯が存在する。
彼が駅前で独り立ち尽くす姿。それは、エリート官僚として「組織の動かし方」を熟知しているからこそ選び取られた、最も冷徹で効率的な視覚戦術だったのではないか。
私たちは、苦境にある彼を救ったのではない。彼が精巧に設計した「判官びいきの劇場」において、観客兼エキストラとしてその筋書きを完遂させられたに過ぎないのだ。
SNSに氾濫する「不当な弾圧」という物語を目の当たりにするとき、提示された物語に酔いしれ、自ら思考を停止させたとき、私たちは真の正義から最も遠い場所に立つ。
その時私たちが加担しているのは、正義などではなく、自分たちを心地よくさせてくれるだけの「偽りの聖戦」に過ぎないことを。


L『玉川徹・経済合理主義|その解剖学』
『知の深淵へ|童話・寓話の解剖学』

