効率の純化(決断のコストカット)
第一章 「合理性」という名の暴力
情報の氾濫によって人々の決断力は著しく低下している。その空白を埋めるように響くのが、堀江貴文氏の極端なまでに削ぎ落とされた断定の言葉だ。
「動かない奴はバカ」「時間の無駄」「そんなの金で解決すればいい」。
彼の説得力を支えるのは、1996年に東京大学在学中に「オン・ザ・エッヂ」を設立し、IT革命の寵児として日本中を席巻した圧倒的な実力だ。
そして、2006年のライブドア事件による逮捕・収監という「国家権力との衝突」を経てもなお、宇宙事業(インターステラテクノロジズ)への挑戦などで自らの正しさを証明し続ける不屈の歩みである。
彼は、他者が配慮する倫理や伝統を「非効率な不純物」として一瞬で切り捨てる。
その振る舞いは、決断の重圧に押し潰されそうな人々にとって、迷いを断ち切る鋭いメスの如く機能している。
第二章 思考の純化 ―― 「費用対効果」への極端な圧縮
堀江氏が駆使する第一の技術は、あらゆる事象を「時間の効率」と「金の多寡」という二つの尺度にまで圧縮し、それ以外の価値を徹底的に排除する技術だ。
本来、仕事や対人関係、あるいは文化的な営みには、効率という物差しでは計り知れない情緒や歴史、そして割り切ることのできない複雑な心理が横たわっている。
しかし、彼はそれらを「無駄」という暴力的な一言でなぎ倒す。多面的な現実を「損か得か」という単一の指標にまで削ぎ落とし、純化させることで、彼はこの混沌とした世界を驚くほど平易なものへと書き換えてみせる。
これは真理の追求などではない。知性の「コストカット」である。「即断即決こそが正義であり、できない理由はすべて言い訳に過ぎない」。。
こうした極端な短絡化は、複雑な調整や深い内省に疲弊した人々にとって、劇薬のような解放感を与える。
彼は、答えのない問いに悩み続けるという「人間の権利」を、合理性という名目で剥ぎ取る。
視聴者は、彼が極限まで純化させた結論を無批判に丸呑みすることで、重苦しい「熟考」という義務から、あるいは人間であることの重圧から、安易に解放されるのである。
第三章 対立の構図 ―― 異なる視点が生む隔たり
社会において、異なる価値観や考え方が存在する中で、意見の対立が生じることは少なくない。ある者は伝統や既存のシステムを重視し、安定を求める。
彼らは変化に対して慎重であり、リスクを避ける傾向がある。
一方、別の者は革新や変化を追求し、新しいアイデアや技術を積極的に受け入れる。
彼らは停滞を嫌い、現状を打破しようとする。
このような異なる視点は、社会における摩擦や隔たりを生み出す温床となる。互いの立場を理解せず、「自身の立場こそが絶対的な正義である」と主張し合うことで、対立は深まる。
しかし、この対立の構図を理解することは、多様な意見が存在する社会において、より建設的な議論や合意形成を行うための第一歩となる。
彼はこの断絶を鮮烈に描き出し、「停滞する側」を無能な仮想敵として切り捨てることで、自らの陣営の結束を、狂信的なまでに固めていくのである。
第四章 感情の増幅 ―― 「怒り」という名の着火剤
堀江氏の説得の手法は、論理的な解説に加えて、感情的な言葉や、強い批判は、それに共感する聞き手には、ある種の連帯感や優越感を与える一方で、批判されている側の聞き手には不安や焦燥感を与える。
感情に訴えかける手法は、情報の効率的な伝達方法の一つとなり得るが、同時に聞き手の判断力を著しく麻痺させる。
彼は「怒り」という最も原始的な情動を伴う説得を繰り出し、視聴者が備えているはずの理性的な防壁を、一瞬にして焼き切るのである。
第五章 鏡の中の「需要」 ―― 自由という名の隷属
これらによって研ぎ澄まされた堀江氏の言葉は、停滞する現代における最強の「劇薬」として機能している。
しかし、彼の「動かない奴はバカだ」という叱咤に応え、直感的に身を投じるとき、私たちは本当に自由を手にしているのだろうか。
「自分で考えろ」と繰り返す彼の言葉に従えば従うほど、私たちは皮肉にも、彼が提示した「合理性」という名のレールをなぞるだけの従順な歯車と化していく。
複雑な事象を自分の頭で咀嚼し、悩み抜くという最も人間的なプロセスを「コスト」として切り捨て、最短距離の「正解」を彼に外注しているに過ぎないからだ。だ。
私たちは、答えのない問いに立ち止まる不安に耐えられず、その不安を「怒り」や「即断」で塗りつぶしてくれる技術者を切望している。
彼をカリスマへと押し上げたのは、自由を求めながらも、その実、思考の責任という重荷を誰かに肩代わりしてほしいと願う、私たち自身の醜悪な他力本願に他ならない。
第六章 その「正解」は、誰のものか
彼が振るった技術の核心は、あらゆる情緒や逡巡を「無駄」として切り捨て、最短距離の行動へと駆り立てる「思考の純化」にある。
池上氏が「わかりやすさ」で、中田氏が「熱狂」で、斎藤氏が「情緒」で思考を停止させるのに対し、彼は「効率」によって思考を停止させた。
私たちは、彼の断定的な言葉を浴びることで、停滞した日常から抜け出したかのような万能感に浸り、自分もまた「合理的な強者」の列に加わったかのように錯覚する。
だが、どれほど彼の「正解」をなぞったところで、それは他者の評価軸に乗った上での「最適化」に過ぎない。
自らの価値観を練り上げ、割り切れない葛藤の中で答えを出すという、人間だけに許された非効率な権利を放棄したその先に、真の意味での自律は存在しない。
誰かが「時間の無駄だ」と一喝するとき、その言葉によって、いかなる「個の迷い」が葬り去られているのか。
そこにあるのは、加速する社会の部品としての最適解と、それを冷徹に指示し続ける技術者の計算式だけである。


L『玉川徹・経済合理主義|その解剖学』
『知の深淵へ|童話・寓話の解剖学』

