不信の純化(不機嫌な正義)
第一章 「不機嫌」という名の正義
朝の茶の間を独占し続けているのは、玉川徹氏の放つ「苛立ち」を孕んだ言葉だ。
彼の説得力の源泉は、その特異な歩みにある。
京都大学農学部を卒業後、1989年にテレビ朝日に入社。ワイドショーのディレクターとして現場を歩き、積み上げてきたのは「大衆は何に怒っているのか」という肌感覚だ。
専門家でも政治家でもない、組織に属する「一会社員」でありながら、、理系の素養に裏打ちされた冷徹なまでの分析眼である。その語り口は、客観性を装いつつも、受け手の核心を突く不思議な「凄み」を放っている。
彼は決して中立を装おうとはしない。あえて「不機嫌」を演じることで、社会への不満を抱える人々にとっての「怒りの代行者」として振る舞う。
視聴者はその眉間の皺や溜息に自らの鬱屈を投影し、彼が振りかざす「主観的な正義」に安易なカタルシスを見出す。
しかし、その本質は理系的な論理による客観性ではない。そこにあるのは、人々の情動を巧みに捉える「感情的」なアプローチと、どの言葉が最も大衆に売れるかを冷徹に見極める「経済合理主義」である。
第二章 複雑さを断つ「善悪」の二項対立
玉川氏が駆使する第一の技術は、多層的な利害関係が絡み合う問題を、「政府・行政=悪、国民=被害者」という極めてシンプルな物語に集約させる技術だ。
本来、公共政策には「あちらを立てればこちらが立たない」という不可避なトレードオフが存在する。多角的な視点と、痛みを伴う調整こそがその本質であるはずだ。
しかし、彼はそれらの複雑な構造を、「やる気がない」「隠蔽している」といった情緒的な言葉を用いて一瞬で一掃してみせる。構造的な限界や制度の摩擦といった難解な問題を、明快な「道徳問題」へと純化させるのである。
これは、緻密な議論をバイパスする、言わばロジカルな「ショートカット」だ。
視聴者はこの短絡的なロジックに触れることで、本来なら避けて通れない「複雑な事実を精査する苦痛」から鮮やかに解放される。彼が提示するシンプルで強固な二項対立は、混迷する現代社会において、複雑な事実を精査する苦痛から解放される。
物事を「善」か「悪」かの二色に塗り分けるその鮮やかな手際は、受け手の思考を一つの結論へと盲目的に誘導していく。
第三章 経済合理主義者という名の武器
玉川氏の説得力を支えるもう一つの柱は、自らを「冷徹な合理主義者」の側に置くことで作り出す、鮮やかな対立の構図である。
彼が番組内で繰り返し提示するのは、不都合なデータや真実を直視する「知的な自分たち」と、その事実から目を逸らし続ける「旧態依然とした権力者」という二分法だ。
理系的な手際で指標を並べ、感情論を排した「冷徹な現実主義」の構えで警鐘を鳴らす。しかし、そこで示されるファクトは、しばしば自身の結論を補強するために先鋭化されている。
視聴者は彼の糾弾に同調することで、「自分は社会の矛盾を見抜いている賢明な側だ」という優越感を抱く。複雑な世の中を冷徹に分析しているという彼自身のスタンスが、そのまま視聴者の自己肯定感へと転換されるのだ。
この「合理主義」という名の武器を振るうことで、彼は視聴者に一種の選民意識を与え、自身の主張を「揺るぎない正論」として熱狂的に受け入れさせていく。
第四章 不信感を燃料にする焦燥の演出
玉川氏が視聴者の心の奥底で着火させるのは、既存のシステムに対する「根源的な不信感」である。
彼は政府や公的機関の発信をそのまま受け入れることを「思考停止」と断じ、含みを持たせた言い回しや深い溜息を効果的に挟み込む。それにより、視聴者が抱く漠然とした不安を、具体的な「怒り」や「焦燥」へと変質させていくのだ。
一度この不信感に火がつくと、視聴者は情報の精査よりも疑念の共有を優先し始める。
「本当のことは隠されている」というバイアスを増幅させることで、彼は視聴者を『モーニングショー』という番組の空間に釘付けにする。
冷静な事実確認よりも、共に憤り、疑うという感情の昂ぶりこそが、彼の説得を正義へと昇華させる原動力なのだ。
第五章 疑念という名の信仰
川氏の手法が特異なのは、他者が「知識という光」を提示しようとするのに対し、一貫して「疑惑という影」を提示し続ける点にある。それによって人々を既存の世界から切り離し、疑念の淵へと立たせるのだ。
しかし、ここには逆説的な結末が待っている。
「公的な発表を疑え」という彼の教えに従えば従うほど、視聴者は皮肉にも、玉川氏自身が選別したデータに対しては無批判に従順になっていく。既存の権威を否定することで生じた思考の空白に、彼は「自分だけが真実を見抜いている」という選民意識を巧みに流し込む。
私たちは、誰かに騙されたくないという根源的な恐怖ゆえに、自らの不信感を肯定してくれる「最も信頼できる疑い手」を求めてしまう。
彼を朝の王座に据え続けているのは、既存のシステムを壊したいと願いながら、その実、自ら新たな「疑念の独裁者」に思考の主導権を差し出した、私たち自身の矛盾に他ならない。
第六章 その「正解」は、誰のものか
彼が振るった技術の核心は、既存の価値観への「疑い」を正義の旗印に掲げ、視聴者を独自の合理性へと幽閉する「対立の構図」の構築にある。池上彰氏が「教養」で、ひろゆき氏が「論理」で思考を停止させるのに対し、彼は「不信」によって思考を停止させたのだ。
私たちは、彼の糾弾を浴びることで「覚醒した市民」になったかのような錯覚に浸り、彼が切り取った断片的な真実を、事象の全容だと信じ込む。
どれほど誰かを断罪したところで、それは玉川氏が設計した「疑念の迷路」を歩まされているに過ぎない。
既存の権威を否定し、すべての情報を疑うという姿勢の先に、自律的な思考が育つことはない。
そこにあるのは、特定の「不機嫌な正義」にのみ心酔し、対話の余地を完全に失った、孤立した正解だけである。
私たちがその言説を受け入れ、「何かを疑え」という一喝に耳を傾ける瞬間。その言葉によって、いかなる「個の信頼」が破壊されているのか。
そこにあるのは、社会への深い亀裂と、それを「真実」として供給し続ける技術者の、巧妙な計算式だけである。

L『玉川徹・経済合理主義|その解剖学』
『知の深淵へ|童話・寓話の解剖学』

