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説得の技術者たち ーー(田嶋陽子)

自由の女神像をローアングルから撮影した迫力ある写真。女神はたいまつを掲げており、背景は曇り空。 メディア・言説の解剖学
田嶋陽子氏が掲げる「怒り」という炎。このたいまつは、何を照らすのでしょうか。
メディア・言説の解剖学
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抑圧の純化(怒りによる解放)

第一章 「怒れるリベラル」という肖像


ジェンダー平等の議論が日常化する現代において、その先駆者として長年「不寛容な茶の間」と戦い続けてきたのが、田嶋陽子氏だ。

彼女の説得力の根源には、英文学者として法政大学教授を務め上げた強固な知性と、理論に裏打ちされた女性学の体系がある。

しかし、大衆が共有する彼女の肖像は、かつての『TVタックル』などで見せた、男性論客たちに一歩も引かず激しい言葉を叩きつける「怒れる女性」の姿であろう。

彼女は、冷静な議論という名の「男社会のルール」をあえて拒絶する。感情を剥き出しにし、時に叫ぶように語るその姿は、社会に蔓延する「女は大人しくあるべきだ」という無言の圧力を破壊する、身体を張ったパフォーマンスでもあった。

2026年、84歳を迎えた彼女は、シニアハウスでの生活を公表するなど、自らの老いや死すらも言論の俎上に載せている。

視聴者はかつての激しさに反発しつつも、彼女が放ち続ける「NO」という言葉の中に、自分たちが押し殺してきた叫びと、抗えない時代の変化を否応なしに突きつけられるのである。

第二章 思考の純化 ―― あらゆる問題を「抑圧」に還元す

田嶋氏が視聴者の心の奥底で着火させるのは、長年抑圧されてきた「負の感情」全肯定である。

彼女は「怒ることは正しい」「不機嫌でいて何が悪い」と説く。

理性的であることを強いる現代社会に対し、感情を爆発させること自体が「個人の回復」であるというメッセージを、自らの振る舞いによって体現するのだ。

「私は私よ!」「あんたに決めつけられる筋合いはない!」

こうした叫びは、単なる口論の次元を超えている。

それは役割に縛られた自分を解放したいという、視聴者の内なる欲求を刺激する計算された演出だ。

一度この「怒りの正当性」に火がついた視聴者は、理性が整合性を問う前に、感情が「彼女の叫びは私の叫びだ」という強烈な連帯を抱き始める。

彼女は知的な議論の体裁を取りながら、視聴者の「自由になりたい」という根源的な渇望を、最も激しい形で増幅させているのである。

第二章 思考の純化 ―― あらゆる問題を「抑圧」に還元する

田嶋氏が駆使する第一の技術は、社会のあらゆる不条理や人間関係の摩擦を、「家父長制による女性への抑圧」という単一の構図へと純化させることにある。

本来、社会問題には経済、歴史、文化といった多層的な要因が複雑に絡み合っている。しかし彼女は、それらを「男が作ったルール」「女を支配するための装置」という言葉で一掃してみせる。

複雑な文脈を「支配と被支配」という原初的な二項対立にまで純化させることで、議論の焦点を一点へと鋭く収束させるのだ。

これは公平な妥協点を求めるものではなく、議論を「覚醒」させるための暴力的なまでの技術である。

視聴者はこの極端な純化に晒されることで、日常の風景に溶け込んでいた「性差による不均衡」という視点に、強制的に立ち戻らされる。

彼女の言葉は、思考を整理するための道具ではない。既存の価値観を根底から揺さぶり、世界を塗り替えるための「衝撃」として機能しているのである。

第三章 対立の構図 ―― 「家父長制」という巨大な仮想敵

田嶋氏の説得を支えるもう一つの柱は、目の前の論敵「古い男性社会の権化」として定義し直すことで構築される、鮮明な対立の構図だ。

彼女は単に相手の意見を否定するのではない。相手が発する「常識的」な言説の裏に潜む「特権意識」を暴き出し、それを「壊すべき古いシステム」の一部として再定義する。

この時、スタジオや茶の間には、「抑圧を維持しようとする側」「解放を叫ぶ当事者」という、越えがたい境界線が引かれる。

視聴者は、彼女の激しい攻撃に戸惑いながらも、「自分も無意識に抑圧の構造に加担していないか」あるいは「自分もあのように声を上げていいのではないか」という、逃げ場のない二極の問いを突きつけられる。

フェミニズムが多様な広がりを見せる中でも、彼女がなお議論の中心に居座り続けるのは、この「対立を恐れぬ技術」が、時代を超えて個人の魂を揺さぶり続けているからに他ならない。

第四章 感情の増幅 ―― 「怒り」を燃料にする自己解放

田嶋氏が視聴者の心の奥底で着火させるのは、長年抑圧されてきた「負の感情」全肯定である。

彼女は「怒ることは正しい」「不機嫌でいて何が悪い」と説く。理性的であることを強いる現代社会に対し、感情を爆発させること自体が「個人の回復」であるというメッセージを、自らの振る舞いによって体現するのだ。

「私は私よ!」「あんたに決めつけられる筋合いはない!」

こうした叫びは、単なる口論の次元を超えている。

それは役割に縛られた自分を解放したいという、視聴者の内なる欲求を刺激する計算された演出だ。

一度この「怒りの正当性」に火がついた視聴者は、理性が整合性を問う前に、感情が「彼女の叫びは私の叫びだ」という強烈な連帯を抱き始める

彼女は知的な議論の体裁を取りながら、視聴者の「自由になりたい」という根源的な渇望を、最も激しい形で増幅させているのである。

第五章 鏡の中の「需要」 ―― 許された「衝突」という名の解放

田嶋氏が数十年間にわたりテレビという戦場で振るい続けた技術は、日本社会の「建前」に風穴を開け続けてきた。しかし、私たちは彼女の「怒り」の向こう側に何を見ていたのだろうか。

ここで浮かび上がるのは、私たちが抱える「衝突への恐怖」と、それを誰かに肩代わりしてほしいという矛盾した欲望だ。

私たちは、空気を読み、波風を立てないことを美徳とする社会に息苦しさを感じながら、自ら声を上げる勇気は持てない。

田嶋氏という技術者は、その巨大な「抑圧されたエネルギー」の投棄先として機能してきた。

彼女を「お茶の間の論客」として据え置いたのは、その思想に心服したからではない。

彼女が画面の中で既存の権威と激しく衝突し、罵倒し合う姿を消費することで、自分たちが日々飲み込んでいる怒りを「安全な場所」で昇華したかったからである。

彼女を「孤高の戦士」に仕立て上げたのは、対話の責任を彼女ひとりに押し付け、自らは傍観者としてカタルシスを得ようとした、私たち自身の臆病な欲望に他ならない。

第六章 その「正解」は、誰のものか

彼女が振るった技術の核心は、あらゆる問題を「抑圧の構造」へと純化させ、視聴者を感情の爆発による自己解放へと誘う点にある。

池上彰氏が「安心」で、三浦瑠麗氏が「優雅」で思考を停止させたのに対し、彼女は「怒り」によって思考を停止させた。

私たちは、彼女の苛烈な言葉に触れることで、自分たちを縛る見えない鎖を自覚したかのような錯覚に浸り、その激しさを「自由の証明」だと信じ込む。

どれほど画面の中で誰かを糾弾したところで、番組の幕が下りれば、私たちは再び「空気を読む」日常へと埋没していく。

彼女が作り上げた「怒りの劇場」は、社会を構造から変えるための武器ではなく、一時の感情を吐き出すための「ガス抜き」として機能してはいなかったか。

メディアの形が変わってもなお、彼女が「あんた、分かってないわね!」と一喝するとき、その怒りの影で、いかなる「静かな対話の芽」が摘み取られているのか。

そこにあるのは、対立を娯楽として消費し尽くした後の虚脱感と、それを「正義」として供給し続けた技術者の、燃え盛る情念の残骸だけである。

説得の技術者たち ーー(池上彰)



『納得感の解剖学|説得の技術者たち』
言霊(ことだま)――「発せられた言葉には、現実を動かす霊的な力が宿っている」。言葉の魔術師たちが放つ言説が感性を支配し、心地よい合意が作り上げられる。そのプロセスと様式美を分析。果たしてその『納得』は、意志か。それとも、用意された様式の帰結か。
『カオスの深層|世相・社会の解剖学』
 L『玉川徹・経済合理主義|その解剖学』


『知の深淵へ|童話・寓話の解剖学』