直木三十五という、時代を駆け抜けた熱狂。
第1章:ラジオが体温を報じた男
大正末期から昭和初期にかけて、日本の出版界および大衆文化において空前絶後の支持を集めた作家がいた。直木三十五である。
彼の社会的影響力は、現代におけるエンターテインメント界のスターと比較しても類を見ない規模に達していた。
1934年(昭和9年)2月、直木が脊椎カリエスにより入院すると、その動静は社会現象となった。当時の主要メディアであった日本放送協会(NHK)のラジオニュースは、連日トップニュース扱いで「直木氏の容態」を速報し続けた。
「直木氏、本日午前十時の体温、三十九度二分」
スピーカーから流れる具体的な数値に対し、聴衆は固唾を呑んで推移を見守った。一作家の体温の変化が、全国放送を通じてリアルタイムで共有され、国家規模の関心事となった事象は、日本の近代出版史上においても他に例を見ない。
当時、文壇では芸術性を重視する「純文学」が主流であったが、直木は一貫して「大衆文芸」の確立に尽力した。
彼は読者が求めているものが高踏的な文学理論ではなく、日々の生活を営むための娯楽や、一時的な現実忘却であることを冷徹なまでに洞察していた。
1930年代に入り、満洲事変を経て日本社会が戦時体制へと傾斜し、言論や生活に閉塞感が漂い始める中、彼の描く波瀾万丈な物語は、国民的な「欲求」の受け皿となった。
彼は時代の要請に応じるように、過密な執筆スケジュールをこなし、文字通り自らの生命を削って大衆の渇望を満たし続けたのである。
第2章:三十一、三十二、三十三……変幻自在の筆名
彼の名前は、固定された権威ではなく、消費される「記号」に過ぎなかった。
直木三十五、本名・植村宗一は、1891年(明治24年)に大阪市南区(現・中央区)の古物商の家に生まれた。
彼は生涯を通じて、一つの定まった地位や場所に安住することを拒む、流動的な生き方を貫いた。
その姿勢はペンネームにも表れており、本名の「植村」の「植」を分解した「直」「木」に、その時の満年齢を組み合わせ、「直木三十一」「直木三十二」と毎年更新していった。
この特異な改名作業は、1931年(昭和6年)、41歳の時に「直木三十五」と名乗った際、親友で文藝春秋社社長の菊池寛から「いい加減にしろ」と諭されるまで続いた。
皮肉にも、彼はこの「三十五」という数字を、自らの戒名の一部として、墓石に刻むこととなったのである。
安定とは無縁の彼の生き様は、その経歴にも如実に示されている。
早稲田大学英文科を月謝未納で除籍処分となった後、大阪で中学英語教師、雑誌編集者、そして一攫千金を狙った化粧品製造販売など、職を転々と変えた。
関東大震災が発生した1923年(大正12年)に帰阪すると、彼はまだ産業として黎明期であった日本映画界の熱狂に身を投じる。
直木は「映画」という新しい大衆メディアの持つスピード感と可能性に魅了された。
「連合映画芸術家協会」を設立し、自ら脚本の執筆、監督、撮影技師までこなすという多才ぶりを発揮した。
彼は活字の世界に留まらず、映像という媒体を通じて、自身の生み出す物語をより多くの大衆に届けるための新たな表現手法を模索し続けたのである。
1935年(昭和10年)、文藝春秋社社長・菊池寛の手によって、日本文学界の双璧をなす二つの文学賞が同時に創設された。
一つは、1927年に自ら命を絶った親友・芥川龍之介の名を冠した「芥川龍之介賞」。これは無名の新人による芸術的価値の高い短編(純文学)を対象とした。
そしてもう一つが、その前年に43歳で病没した親友・直木三十五を記念した「直木三十五賞」である。こちらは中堅以上の作家による通俗性の高い長編(大衆文芸)を対象とするという、対照的な性質を付与された。
芥川賞の選考委員として重鎮の座に就いた志賀直哉が、自身の「小説の神様」としての権威を背景に、私小説的、あるいは内省的な「芸術性」を重視する傾向を決定づけていったのに対し、直木賞は一貫して「読者との共鳴」をその評価軸に置いた。
志賀ら純文学のエリート層が「通俗」「娯楽本位」として退けた、物語としての躍動感や活劇の熱量こそが、直木賞における正統な評価基準となったのである。
直木が遺した文学的遺産は、作家個人の内面へと潜り込む自己解剖の記録ではない。
物語という奔流に読者を巻き込み、現実を一時的に忘却させる「娯楽としての歓喜」であった。
志賀が体現した、一字一句を削ぎ落として沈黙に近づくような「静寂の文学」に対し、直木賞は常に「光」が当たる大衆の場、すなわち商業的成功と社会的熱狂を求め続けた。
文壇の奥底で、自己と向き合い言葉を研磨し続ける芥川賞の静謐。
その一方で、作家没後もなおその名前が巨大なブランドとして独り歩きし、年に二回、選考結果が全国的なニュースとして社会を騒がせ続ける直木賞という名の祝祭。
この相反する二つの賞の並立こそが、近代日本文学の骨格を形成することとなったのである。
第4章:物語こそが、人生を救う
文藝春秋社の創設者である菊池寛は、芥川龍之介と直木三十五という、文学に対する姿勢も生き様も対極的な二人の友人を、終生にわたり精神的・経済的に支え続けた。
1927年(昭和2年)に芥川が服毒自殺を遂げた際、「なぜ止められなかったのか」という深い後悔を抱えていた菊池にとって、破天荒ながらも生への執着を見せた直木を守り抜くことは、個人的な贖罪にも似た切実な責務となっていたのである。
直木が過度な借金を重ね、無謀とも思える映画製作に私財を投じて窮地に陥るたび、菊池は「馬鹿野郎」と叱責しながらも、最終的にはその債務を肩代わりし続けた。
山﨑國紀氏による『知られざる文豪 直木三十五 病魔・借金・女性に苦しんだ「畸人」』など、直木の生涯に関する多くの伝記や研究書で、彼の浪費癖や多額の借金、そしてその債務を親友である菊池が処理していた経緯が詳細に記述されている。
この三者三様の対照的な人間性は、1923年(大正12年)の関東大震災直後の行動に象徴的に現れている。壊滅的な被害を受けた東京の街を三人で歩いた際、芥川は目の前の世界の崩壊を静かに直視し、文明の脆さに対する絶望を決定的なものとした。
『大正十二年九月一日の大震に際して』等の随筆:
芥川は震災直後の体験を複数の随筆に記している。そこで彼は、被災地を歩く自身の心理状態を、客観的で冷淡な観察者のように描きつつも、文明が瓦解した後の人間の醜さや虚無感を浮き彫りにした。
流言蜚語と自警団への加担に対する自己嫌悪:
震災後、東京にはデマが飛び交い、朝鮮人虐殺などの惨劇が起きた。芥川自身も一時は流言を信じ、自警団として竹槍を持って街に立った。後に彼は、この自身の行動を「善良なる市民」の皮を被った「野蛮」であると厳しく自省し、理性が容易に崩壊する人間性の脆さに絶望を深めたのである。
「生活」の喪失と芸術観の変容:
震災によって、自身が愛した江戸の情緒を残す下町(本所・両国)が壊滅した。この「生活の基盤」の喪失は、彼の作品世界を「虚構」から、より内省的で「詩的精神」を剥き出しにする晩年のスタイルへと加速させたと指摘されている。
「ぼんやりした不安」への伏線:
震災の4年後に彼は自死するが、震災を機に深まった「人間や文明の不確実さ」への認識は、遺書にある「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」を構成する決定的な要因の一つとなった。
このように、芥川にとっての震災は単なる自然災害ではなく、それまで信じていた「文明」や「理性」が瞬時に崩れ去ることを証明する出来事であり、その後の彼の精神的破綻に大きな影響を及ぼしたのである。事であり、その後の彼の精神的破綻に大きな影響を及ぼしました。
一方、直木は目の当たりにした惨状を前にしてさえ、「これを映画に撮るんだ」と目を輝かせ、未曾有の災害の中からも即座に「物語」や「娯楽」の種を見出そうとする、驚異的なまでの生命力と大衆作家としての本能を見せたのである。
直木三十五は、関東大震災の凄惨な光景を前にして放った言葉通り、実際にその惨状を映像に収めた。
震災からわずか2週間後の1923年(大正12年)9月15日、彼はカメラを携えて東京へと戻った。焦土と化した東京の街を撮影して回り、その記録映像を翌10月に大阪の道頓堀・弁天座にて『帝都大震災大火災実況』として公開したのである。
また、単なる記録映画に留まらず、彼は自身の設立した「連合映画芸術家協会」を通じて、震災を背景とした劇映画の製作にも着手した。
『火柱』:1924年(大正13年)公開。震災時の混乱と火災を題材に取り入れた作品である。
震災後の活動:被災した東京を離れ、京都や大阪を拠点に映画製作を継続。震災という巨大な社会的喪失を、大衆が共有できる「物語」や「映像」へと即座に転換させることで、映画製作者としてのキャリアを本格化させた。
絶望に沈む芥川龍之介の傍らで、直木はレンズ越しに瓦礫を見つめ、それを「大衆への見世物(エンターテインメント)」へと昇華させる道を選んだのである。
そして菊池は、この対照的な二人の天才の狭間で、ジャーナリズムという手段を通じて彼らの才能を開花させようと奔走した。この三人の文豪の複雑な関係性が、後の日本文学の歴史を形作る原動力となったのである。
第5章:四十三歳の絶筆
直木三十五が死の間際に残した言葉や行動については、いくつかの象徴的な事実が伝えられている。
「書けない、書けない」
結核性脳膜炎の病魔に侵され、昏睡状態に陥る直前まで、彼は執筆中の原稿を気にかけていた。震える手で空中に文字を書くような仕草(空書)を繰り返し、苦しげに「書けない、書けない」と呟き続けたとされている。
絶筆となった『弘法大師』
朝日新聞で連載中だった小説『弘法大師』は、彼が亡くなる前日まで執筆が試みられていたが、病状の悪化によりついに未完のまま絶筆となった。
座右の銘「芸術は短く、貧乏は長し」
彼が終生抱えていた経済的困窮と、自らの命を削るような執筆活動を象徴する言葉として知られている。
この言葉は、彼の墓碑や文学碑にも刻まれており、死してなお、彼という作家の精神を雄弁に物語っているのだ。
葬儀と周囲の反応
葬儀は菊池寛ら「文藝春秋」同人が中心となり、内幸町の大阪ビルで執り行われた。
参列者は500名を超え、新聞・雑誌社、映画関係者、俳優などが名を連ね、その顔ぶれの広さは「大衆文芸葬」とも称される賑やかで悲しいものであった。
彼は自己の内面を語る遺言を遺すのではなく、最後まで「未完の物語」と「書き手としての自分」に執着し、大衆作家としての生を全うした。
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