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第1話:志賀直哉は、なぜ「小説の神様」と呼ばれたのか

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第1話:志賀直哉は、なぜ「小説の神様」と呼ばれたのか
文学・文壇
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1. 菊池寛による命名と「写生」の衝撃

この呼称は、1920年代前半に作家・菊池寛が志賀を「短編小説の完成者」と称えたことから始まる。 菊池は志賀の文章を、日本近代文学における“到達点”として扱い、その評価が文壇全体に広がっていった。

当時の志賀の文章は、対象を鏡のように正確に写し取る「写生」の極致とみなされていた。 白樺派(武者小路実篤らによる文芸思潮)の内部でも、志賀の文体は“写生の完成形”として特別視されていた。

2. 『城の崎にて』にみる「写生」の衝撃——感情を排した描写の正体

短編『城の崎にて』では、路上で死んだ蜂や、偶然殺してしまったイモリの生死を、感情を排した筆致で克明に描写し、その手法は文壇に大きな衝撃を与えた。 この“感情を持ち込まない観察”は、青年期に内村鑑三らの影響で傾倒したキリスト教的な倫理観――清潔、正直、罪の意識――とも深く結びついている。

志賀の真骨頂は、その推敲の徹底ぶりにある。 一度書き上げた原稿を、納得がいくまで数年、時には十数年も寝かせ、一字一句を削り落としていく。 その結果、加筆も削除も許さない完璧な構成が生まれ、後に作家たちは彼の文章を「一字も動かすことができない」と評した。

3. 芥川龍之介が畏怖した才能。作為を排した「事実」の聖域

同時代の天才・芥川龍之介は、志賀に対して強い畏怖を抱いていた。 芥川は自身の作品『戯作三昧』の原稿の端に、「志賀直哉になりたい」という趣旨の書き込みを残している。 知性で物語を組み立てる芥川にとって、作為を排し「事実」だけを定着させる志賀の資質は、自らの到達できない聖域に見えたのだ。

4. 太宰治が反発した「写実主義」の呪縛。日本文学の正統を決めたもの

この評価は、プロの作家や作家志望者の間で、ほとんど信仰に近い形へと広がっていった。当時の青年たちは、志賀の文章をただ読むだけでなく、一字一句を書き写す「写経」によって、その文章の呼吸を学ぼうとしたのである。

志賀直哉は、単なる物語の提供者というより、表現における「正解」を示す教祖のような存在となった。

しかし、この完成された文体は、後に太宰治が『如是我聞(にょぜがもん)』で激しく反発したように、後進の作家たちにとって巨大な壁ともなった。一人の作家が「神様」として位置づけられたことは、日本近代文学において、私小説的な写実主義を「正統」とする流れを決定づける結果となったのである。