1. 芥川賞創設の舞台裏――菊池寛が親友二人に託した「名」のねじれ
1935年、文藝春秋社社長・菊池寛により、芥川龍之介賞(芥川賞)と直木三十五賞(直木賞)が創設された。これらの賞は、前年に病没した直木三十五と、1927年に自ら命を絶った芥川龍之介という、菊池の親友二人の名を冠したものである。
菊池は芥川の“虚構の芸術”を称えつつも、選考委員の構成においては、志賀直哉を中心とする白樺派的価値観を重視した。ここに、賞の性質を決定づける最初の「ねじれ」が生じる。
2. 選考委員・志賀直哉の圧倒的権威――「私小説的写実」が基準となった日
創設時の芥川賞選考委員には、志賀直哉、菊池寛、佐藤春夫、室生犀星、山本有三らが名を連ねた。その中でも志賀は重鎮として、選考方針に絶大な影響力を持つことになる。
志賀は芥川の技巧的な虚構を必ずしも高く評価していなかった。むしろ、志賀が理想としたのは、生活実感に根ざした「私小説的写実」であり、この価値観が選考の場で“正統なる基準”として扱われるようになる。
3. 芥川の“虚構” vs 志賀の“写実”――「話らしい話のない小説」への評価
芥川龍之介は、古典を題材に知的な技巧を凝らすなど、「虚構の構築」を芸術の核に据えていた。対して志賀は、選考の場で「話らしい話のない小説」を是とする姿勢を明確にする。
第3回芥川賞の選評では、受賞作・小田嶽夫『城外』について「話らしい話のない点がいい」と評価した。
志賀が求めたのは、装飾を排した文章の正確さと、作者の生活実体験に基づく「真実味」であった。この基準は、芥川が追求した芸術とは根本的に異なるものである。
4. 文学青年たちの「写経」文化――教祖としての志賀直哉と文体の模倣
この評価基準は、当時の文学青年たちに決定的な影響を与えた。彼らにとって志賀の作品は、ただ読むものではなく、一字一句を書き写す「写経」の対象となった。
志賀の文体を模倣することが、高尚な文学へ至る唯一の道だと信じられていたのである。読者は志賀を「物語の提供者」ではなく、「正解を提示する教祖」として崇めていた。
5. 芥川賞は「芥川の虚構」ではなく「志賀の写実」を制度化した
結果として、芥川賞の初期選考では「自己の内省」や「生活の描写」が純文学の正統として高く評価される傾向が定着した。物語の面白さを追求する作風は「通俗」として退けられ、芥川の名を冠した賞でありながら、実質的には「志賀的なものさし」が純文学の型を定義することとなった。
初期の受賞作を見ても、その傾向は顕著である。
- 小田嶽夫『城外』
- 石川達三『蒼氓(そうぼう)』
- 外村繁『草筏』
いずれも生活実感や内省を重視した“志賀的”な作品が並ぶ。
芥川賞は、芥川の虚構ではなく、志賀の写実を制度化したのである。
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