1. 芥川龍之介が抱いた危機感 ―― 私小説リアリズムへの反発
芥川賞の象徴である芥川龍之介は、生前、志賀直哉が体現する「私小説」的リアリズムに対し、深い危機感を抱いていた。芥川にとって小説とは、先行する文学や歴史を素材に、緻密な構成と知性によって組み上げられる「虚構の芸術」である。
作家が自身の生活をそのままさらけ出す手法を芥川は安易とみなし、物語の構成美や芸術的仕掛けこそが小説の本質だと考えていた。しかし、晩年の芥川は、志賀の『和解』を「日本一の小説」と評している。そこには、嫌悪と憧憬が同居する、複雑な感情が渦巻いていた。
2. 1927年「小説の筋」論争 ―― 文学観の衝突
1927年、芥川は谷崎潤一郎を相手に、文学史に残る「小説の筋」論争を展開する。この論争は、志賀直哉の作風に代表される「話らしい話のない小説」を至上とする文壇の風潮に対し、芥川が異議を唱えたことから始まった。
芥川は、小説の芸術的価値は「筋(プロット)」を超えた詩的精神にあるとしつつも、物語の構成力を軽視するリアリズム偏重を「文学の退廃」として警戒していた。
3. 谷崎潤一郎の主張:物語の幾何学
谷崎は、小説の面白さは「筋(プロット)」の組み立てにこそ宿ると主張した。虚構を構築する力を「建築的な美」「幾何学的な面白さ」と呼び、事実ではなく“嘘(フィクション)”によって大きな世界を作ることこそ小説家の職能だとした。
4. 芥川龍之介の反論:話らしい話のない小説
これに対し芥川は、「筋の面白さが小説の芸術的価値を高めるわけではない」と反論する。志賀直哉の作品に代表される、ドラマを排し、身辺の些細な事象を透徹した感覚で写し取る「話らしい話のない小説」の中にこそ、純粋な詩的精神が宿ると説いた。
芥川は私小説を嫌ったが、志賀の“清潔な観察”だけは別格として扱っていた。この矛盾が、論争の背景にある。
5. 芥川の矛盾と志賀直哉という“理想”
皮肉にも、芥川自身は『羅生門』『地獄変』など、緻密な構成を持つ作品で文壇に登場した作家である。しかし、この時期の芥川は、自らの技巧的な作風に行き詰まりを感じていた。
彼に欠けていた「生のままの強さ」を持つ志賀直哉を、芥川は到達すべき究極の理想として神格化していた。谷崎との論争で志賀を擁護したのは、「自分の知性で作った物語は、志賀の一筋の真実に敵わない」という、芥川自身の痛切な敗北宣言でもあった。
6. 論争の決着とその後 ―― 芥川の死と私小説の時代
この論争は、同年7月の芥川の自死によって決定的な結末を迎える。谷崎はその後、『卍』『細雪』など虚構の傑作を次々と発表し世界的評価を得た。
一方で、日本の「純文学」の主流は、芥川が最期に擁護した志賀直哉的な「私小説」へと傾斜していく。唯一の理論的対抗馬だった芥川が去ったことで、文壇における志賀の権威は絶対的なものとなった。
物語の娯楽性や虚構の面白さは「通俗」とされ、作家たちは自己の内面を解剖し、生活の断片を綴る内省的な私小説の迷宮へと進んでいった。芥川が守ろうとした「物語の自律性」は、皮肉にも、彼の名を冠した賞が普及する過程で、志賀の掲げる「真実味」という基準に飲み込まれていったのである。
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