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第2話:直木三十五:生活に追われ、生活を燃やした作家

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第2話:直木三十五:生活に追われ、生活を燃やした作家
文学・文壇
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1891年(明治24年)、大阪・安堂寺町。 古物商の長男として生まれた直木三十五の原風景は、 質屋という“他人の人生と金が交差する場所”だった。

志賀直哉が「書かない自由」を与えられた家に生まれたのとは対照的に、 直木の人生は最初から生活の重さに引きずられて始まった

1. 早稲田除籍──「生活」がすべてを決める人生の始まり

早稲田大学に進学するも、 月謝未納で除籍。

志賀が“大学を辞めても生活が揺るがない人生”を歩んだのに対し、 直木は“大学を辞めた瞬間に生活が崩れる人生”だった。

ここから、 直木の漂流が始まる。

2. 最初の迷走──代用教員と新聞記者

除籍後、まず大阪に戻り、代用教員となる。 しかし一所に留まれず、すぐに上京。

今度は「時事新報」の記者となるが、 これも長くは続かない。

直木にとって仕事とは、 「生活をつなぐための手段」であり、 志賀のように“自分の内部が熟すのを待つ”余裕は一度もなかった。

3. 冬夏社──文学が“商品”になる瞬間(1920年)

1920年、仲間の作家たちと出版社「冬夏社」を設立。

ここで直木は、 文学を“芸術”ではなく、 「借金を返し、飯を食うための商品」として扱う術を叩き込まれる。

  • 印刷所との交渉
  • 資金繰り
  • 原稿整理
  • 宣伝文句の作成

原稿が売れなければ、 その日の飯がない。

志賀直哉が“書かないこと”で価値を高めたのに対し、 直木三十五は“書かないと死ぬ”世界にいた。

4. 関東大震災──東京を捨て、大阪へ戻る

1923年、関東大震災。 東京の出版界は壊滅し、直木は再び大阪へ。

ここで彼は、 化粧品メーカー・中山太陽堂が設立した「プラトン社」に参加する。

5. プラトン社──数万部の怪物との遭遇(1924年)

雑誌『苦楽』の編集に携わり、 映画化を前提としたエンタメ作品を量産。

冬夏社が数百〜千部の世界だったのに対し、 『苦楽』は一気に数万部へ跳ね上がる。

直木は悟る。

「文学は数で世界を変える」

ここで直木の“数への執着”が決定的になる。

6. 映画界への狂奔──書くだけでは足りない

直木は書くだけでは飽き足らず、 自ら映画製作に乗り出す。

  • 脚本
  • 監督
  • 企画
  • 資金繰り

複数の現場を同時に抱え、 動いていないと死んでしまうマグロのように走り続けた。

志賀直哉が“沈黙”を選んだとき、 直木三十五は“疾走”を選んだ。

7. 「三十一、三十二……」と変わる名──自分すら固定しない人生

『文藝春秋』に寄稿する際、 直木は自分の年齢を筆名にした。

  • 直木三十一
  • 直木三十二
  • 直木三十三……

誕生日が来るたびに名を書き換える。

志賀直哉が“変わらない自分”を守り続けたのに対し、 直木は“変わり続ける自分”を生きた。

自分という存在すら、固定された職や地位ではなく、 流れる時間そのものに委ねたのだ。

8. 金銭──菊池寛という「金主」

直木は借金を繰り返し、踏み倒し、 あるいは膨大な原稿で返そうとした。

菊池寛は叱りながらも、 毎回肩代わりした。

直木にとって文学とは、 菊池から受け取る現金であり、 その現金によって繋ぎ止められる生活そのものだった。

志賀直哉が“書かない自由”を持っていたのに対し、 直木三十五は“書かないと生活が崩れる”人生を生きた。

9. 対比:志賀直哉──不動・沈黙・固執の88年

ここで、直木の43年と志賀の88年が対照をなす。

志賀直哉は、

  • 旧家の出
  • 学習院
  • 白樺派
  • 父の資産
  • 遺産相続
  • 高畑サロン
  • 書かない自由
  • 沈黙が価値になる人生

を生きた。

直木三十五は、

  • 質屋の息子
  • 早稲田除籍
  • 冬夏社の倒産寸前
  • プラトン社の雑誌編集
  • 映画界での狂奔
  • 借金と原稿の往復
  • 書かないと死ぬ人生

を生きた。

二人の人生は、 最初から最後まで“対照”だった。

10. 直木三十五は、生活を燃やして書いた

志賀直哉が“書かない自由”を持っていたのに対し、 直木三十五は“書かないと生きられない”人生を生きた。

生活に追われ、 生活を燃やし、 生活そのものを原稿に変えて走り続けた。

そしてこの“疾走”が、 後に直木賞という制度に結晶する。