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干支外伝:「オレは行かなかった」――ツチクジラ、深海の金計算

小説
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干支を決めるための招待状が、あらゆる生きものたちに届いた。

だが、そこに姿を見せなかった者がいる。ある者は、金が惜しくて途中であきらめた。

これは、選ばれなかった者の物語。 栄光ではなく、沈黙。 名誉ではなく、影。

それでも彼は語る。 語らずにはいられないからだ。 なぜなら――

語られなかった者たちの記憶は、 誰かが語らないと、 海の底に沈んだまま、永遠に忘れられてしまうからだ。

干支の宴? ああ、オレも呼ばれたさ。 でもな――行かなかった。

行けなかったんじゃねえ。
オレが行かなかったんだ。

オレの仲間には、“幻のクジラ”って呼ばれてるやつがいる。
クロツチクジラ(Berardius minimus)っていうやつだ。

2019年に北海道・羅臼沖で新種として記載されたばかりのクジラでな。
世界で確認された個体はわずか数頭よ。

「見られたら幸運」と言われるほどの深海性・希少性を持つ。鳴き声も小さく、群れず、深く潜るため、観察が極めて困難だとも言われてるな。

招待状をもらったからといっても、宴に行くには、片道で500キロの魚を食わにゃならん。

帰りも入れりゃ、1トン分の食事だ。それも、たった1日でだ。

オレの体は、10トンある。 腹の中には、9つの胃袋が詰まってる。

イカのくちばしも、レンズも、寄生虫も、 みんな飲み込んできた。

そのうえ、エサを取るには、500メートルは潜らにゃならん

潮を読んで、音を聞いて、 鳴門の渦越えて、 途中でイワシの群れにでも当たれば別だが――
そんな保証、どこにもねえ。

エサにありつけなければ、腹は減るし、命も削れる。

群れ? ああ、たまに2頭、3頭で泳ぐこともある。 でもな――

誰かとつるむと、潮の音が聞こえなくなる。オレは、深海の静けさが好きなんだ。

それに群れりゃ、そいつにオレの分の食いもんも取られちまうだろうが。

だから、群れねえ。 それだけの話さ。

それと争わないことだな。

オレの歯? 今じゃ、もう飾りみてえなもんさ。 若い頃は使ったよ。

オス同士でぶつかって、背中に傷を刻み合った。

でも今は、イカや深海魚を吸い込むだけで十分さ。

体力使ったところで、一文にもなりゃしねえ。 無駄に噛みつくのは、若い証拠だよ。

争そいごとは、腹が減るだけだろうが。 無駄な体力と金は使わない。 ……それが、オレの主義だ。

昔はな、神様だったんだよ。

鯨が打ち上がると、村が騒いで、 骨を埋めて、唄まで作って、拝んでくれた。

鯨塚。鯨唄。鯨祭り。

オレの骨を立てて、 「ありがとう」だの「神の恵み」だの―― そう言って、頭を下げた。

でもな、あれは“感謝”じゃねえ。 採算が合ったってだけ。

肉、油、骨、髭―― オレたちは、一頭まるごと換金できる神だったのよ。

干支の椅子? あれは、群れる者のための席だ。

オレには、似合わねえ。

クジラは、セコすぎて干支にならなかった

……違うね。
オレは、割に合わねえから行かなかった。 それだけの話さ。

ツチクジラは、金が惜しくて途中であきらめた。


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