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第1回:【古代ローマ】音と体温は共有される

古代ローマのコロッセオでの剣闘士の戦いを描いた、パブリックドメインの歴史画。勝利した剣闘士が敗者の首を踏みつけ、観客やベスタの処女たちがとどめを刺すよう親指を下に向けて合図を送っている、ジャン=レオン・ジェロームによる写実的な油彩作品 歴史・文化
ジャン=レオン・ジェローム作『指し降ろされた親指(Pollice Verso)』、1872年、キャンバスに油彩(パブリックドメイン)
歴史・文化
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身体・都市・神の三位一体としての公共空間


序文:トイレから見た世界の秩序と信仰

私たちは、排泄を「個人的な行為」として捉えている。密室で、他人の目や音から隔てられ、できるだけ痕跡を残さずに済ませるべきもの。だが、それは本当に普遍的な感覚なのだろうか?

紀元前のローマでは、排泄は「共に行うもの」だった。音も、体温も、道具さえも共有される空間。そこには、現代の私たちが失った「公共性」の感覚が息づいていた。

このシリーズの旅は、そんなローマの便所から始まる。排泄という最も身体的で、最も社会的な行為を通して、私たちは文明の深層に触れることになる。

セクション1:音と体温の共有

ローマの街角に、石造りの小さな建物がある。フォリカエ(foricae)と呼ばれた公衆便所だ。中に入ると、壁際にずらりと並ぶ大理石や石製の長椅子。そこには鍵穴型にくり抜かれた穴が等間隔に空いていて、人々はそこに腰を下ろし、隣人と肩を並べて用を足す。

仕切りはない。扉もない。音は響き、においは空間を満たす。ただし、現代の感覚で「全員が気軽に社交を楽しんでいた」と想像するのは少し単純化しすぎかもしれない。実際、フォリカエは主に下層階級や奴隷が使うものとされ、上流階級の市民、特に身分のある女性は足を踏み入れることがほとんどなかった。天井が低く窓も少ない薄暗い空間で、衛生状態は決して良好とは言えなかった。

それでも、体温が伝わる距離で互いの存在を感じながら排泄するという行為は、現代の私たちが「個室」で守ろうとするものとは明らかに異なる感覚だ。身体がまだ完全には「私的なもの」に閉じ込められていなかった時代の空気が、そこには漂っていた。

セクション2:道具の共有と信頼の論理

ローマの公衆便所には、もうひとつの「共有物」があった。それが、テルスソリウム(tersorium)と呼ばれる、棒の先に海綿を括りつけた清拭用の道具である。クシロスポンギウム(xylospongium)とも呼ばれる。

便座の下には水が流れ、使用後のテルスソリウムを洗い流すための溝が設けられていた。利用者はこの道具を共用し、次の人のために水で濯いで戻す。酢や塩水に浸して使う場合もあったようだが、現代的な意味での消毒には程遠かった。つまり、排泄の道具までもが「共有」されていたのだ。

現代の私たちから見れば、感染症や衛生の観点からは信じがたい習慣に映る。実際、腸内寄生虫の蔓延など、公衆衛生上の問題も深刻だったことが研究によって明らかになっている。だが当時は、細菌やウイルスの概念は存在せず、「清潔」とは視覚的・感覚的なものだった。

それでも、誰かが使った道具を信じて使うという行為には、共同体への信頼が前提としてあった。テルスソリウムはローマ市民の「公共性」への感覚を象徴する道具だったのかもしれない。

セクション3:クロアカ・マキシマと神の秩序

古代ローマの都市には、世界最古級の下水道が走っていた。クロアカ・マキシマ(Cloaca Maxima)――紀元前6世紀、王政ローマの王タルクィニウス・プリスクスの命により建設が始まったとされるこの巨大な下水道は、都市の排水をティベリス川へと導くための大動脈だった。

だが、ローマ人にとってそれは単なる土木構造物ではなかった。そこには「ウェヌス・クロアキナ(Venus Cloacina)」が祀られ、排泄物の流れそのものが、都市の浄化と神聖な秩序の一部とみなされていた。

クロアキナはもともとエトルリア起源の神格と考えられており、後にローマの愛と浄化の女神ウェヌスと同一視され、「ウェヌス・クロアキナ(排水路のウェヌス)」という称号を持つ存在となった。フォロ・ロマーノの一角には彼女を祀る小さな円形の祠(サケッルム)が設けられ、「清め」と「排泄」が同じ神のもとに置かれていた。

排泄=流す=清める=秩序を保つという連鎖が、都市の感覚として根づいていた。

セクション4:水の流れと「見えない清潔」

ローマの公共浴場や便所には、常に水が流れていた。水は「清め」の象徴であり、流れることそのものが「浄化」の行為だった。

この感覚は、現代の「清潔=無菌・無臭・不可視」とは異なる。ローマ人にとっての清潔とは、流れの中に身を置くこと、そしてその流れが神の秩序とつながっていることだった。

クロアカ・マキシマを流れる水は、ただの排水ではない。それは、都市の「穢れ」を神のもとへと還す、宗教的な動脈だった。その流れに身を委ねることは、身体を都市に、都市を神に接続する行為だった。

セクション5:結び ― 身体・都市・神の三位一体

古代ローマにおいて、身体は都市の一部であり、都市は神の秩序の中にあった。排泄はその循環の一環であり、流すことは祈ることに近かった。

古代ローマの便所に響いていたのは、排泄音だけではなかった。それは、都市に生きる者たちの呼吸であり、体温であり、信頼の気配だった。

音も、道具も、流れる水も、すべてが「共有」されていた時代。だが、この三位一体の構造は、やがて崩れていく。排泄は隠され、身体は羞恥の対象となり、清潔は「見えないこと」と同義になっていく。

次回、私たちは中世ヨーロッパへと足を踏み入れる。そこでは、肉体は「罪の器」とされ、排泄は忌避されるべきものとなっていた。身体が聖性から遠ざけられ、封じられていく時代の始まりである。

▶目次〈清潔という幻想〉:トイレから見た世界の秩序と信仰