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第7回:【大名の水洗トイレ】「流す贅沢」という名の背信

葛飾北斎による浮世絵。手前に多摩川の流れと荷を積んだ舟や馬が描かれ、遠景には雪を頂いた富士山がそびえる。落ち着いた青と茶の色彩が特徴的な『冨嶽三十六景 武州玉川』の図。 歴史・文化
葛飾北斎『冨嶽三十六景 武州玉川』(パブリックドメイン提供:メトロポリタン美術館)
歴史・文化
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生理現象を否定する権力

序文

江戸時代、日本の都市は「黄金のリサイクル社会」だった。下肥(しもごえ)は貴重な資源として売買され、排泄は「経済活動の一部」として、日常に組み込まれていた。

だが、その循環の外に立とうとした者たちがいる。大名や城主たちである。

彼らは、排泄物を「流した」。それは単なる衛生のためではない。自らの肉体が発する卑俗な現実を、視界から、構造から、社会から消し去るためだった。

この回では、城郭の排泄処理構造と下肥経済の断絶という史実から、「流す」という行為に込められた権力の論理を読み解いていく。

セクション1:江戸の下肥経済 ― 汚物が「黄金」と呼ばれた都市

江戸の都市衛生を支えていたのは、下肥の流通経済だった。農村は都市の排泄物を肥料として必要とし、大名屋敷や長屋の汚物は専門の業者によって定期的に回収され、農村へと運ばれていった。

特に大名屋敷の下肥は「上肥(じょうごえ)」と呼ばれ、良質な肥料として高値で取引された。屋敷に出入りする農民や業者にとって、大名の排泄物は文字どおり「黄金」だった。

この循環は、都市と農村を結ぶ経済的な紐帯でもあった。排泄物は消えるのではなく、土へと還り、食へと戻ってくる。江戸の都市が比較的清潔を保てたのも、この「循環」が機能していたからだった。

しかし、この循環に参加しない者たちがいた。

セクション2:城郭の隠し排泄口 ― 軍事と衛生の二重構造

城は、戦うための要塞であると同時に、大量の人間が生活する空間でもあった。篭城戦において、最大の敵は飢えだけではない。堆積した汚物による疫病の蔓延もまた、城を内側から崩す脅威だった。

彦根城では、馬屋の排泄物を処理するために巨大な石組みの側溝が設けられていた。その構造は現存しており、衛生インフラとしての城郭設計を今に伝えている。

高松城のような海城では、潮の満ち引きを利用した自然排水が構造的に組み込まれていたとされるが、これが意図的な設計によるものかについては議論が残る。

いずれにせよ、これらの排泄処理機構は外からは見えない場所に設けられていた。敵に弱点を悟らせず、内部の秩序を保つための、軍事的かつ衛生的な設計だった。排泄は、城の構造そのものに組み込まれた「見えない問題」だったのだ。

セクション3:「流す」ことが意味する絶大な権力

下肥経済が機能していた江戸において、排泄物を「流す」ことは経済的な背信行為でもあった。農民にとって必要な資源を、ただ捨て去る。それは、「私は汚物を金に変える必要のない存在である」という階級的優越のパフォーマンスだった。

第6回で見た中国皇帝がおまるの中身をナツメで覆い隠したように、支配者たちは排泄という生理現象を「神聖な肉体には属さないもの」として処理しようとした。日本の大名たちもまた、城郭の構造を通じて、自らの身体を経済の循環から切り離すことで、ある種の神格化を図った。

清潔とは、ここに至って「汚れを取り除くこと」ではなくなる。それは、排泄という現実を構造と装置によって「なかったこと」にする力であり、その力を持てるかどうかこそが、支配の正当性を可視化する鍵だった。

なお、武田信玄や松平定信の水洗トイレについては、語り継がれる逸話が複数存在するが、一次史料による確認が困難なため、本稿では傍証として留める。

セクション4:湯治という「再生の清潔」― 排除と浄化の使い分け

大名たちは、城や屋敷では排泄物を即座に処理しながら、一方で身体の「内なる穢れ」を癒やすために湯治へと向かった。

箱根、熱海、草津。霊泉と呼ばれる温泉地には、大名たちの湯治記録が数多く残されている。そこでは、湯に浸かり、薬膳を食し、身体を「清め直す」儀式が行われた。

つまり彼らは、「排除の清潔」と「再生の清潔」を使い分けていた。屋敷や城では、排泄物を即座に流し去り、不浄を「存在しなかったこと」にする。湯治では、身体に蓄積した病や穢れを、神聖な外部の力で洗い流す。

この二重の清潔観こそが、支配階級に許された特権的な肉体管理だった。清潔とは単なる衛生ではない。それは、身体のどこまでを「社会に見せるか」を選び取る権利であり、その選択肢の多さこそが、権力の証だったのだ。

結び

「流す」という行為は、単なる衛生技術ではなかった。それは、排泄という現実を否認し、肉体を循環の外に置くための装置だった。

彦根城の石組み側溝、海城の潮汐排水、大名屋敷の下肥放棄。それらはすべて、清潔を「見せないこと」と「流し去ること」で定義する構造だった。

だがその清潔は、経済的には背信であり、社会的には断絶を生んだ。下肥を必要とする農民たちにとって、大名の「流す」行為は、黄金を川に捨てるような、理解しがたい選択だった。

清潔とは、もはや「汚れを取り除くこと」ではない。それは、排泄という生理現象を構造と儀礼によって「なかったこと」にすること。そしてその否認の力こそが、支配の正当性を演出する鍵だった。

次回は、その循環の「内側」に立った者たちの話である。汚物を黄金と呼んだ江戸の町人たちが、いかにして清潔と共生したか。

▶目次〈清潔という幻想〉:トイレから見た世界の秩序と信仰