批判しながら共鳴する、効率至上主義という名の「鏡合わせ」
1.「算数が破綻している」という共通言語 ── 竹中平蔵の提言と玉川徹の限界説
元大臣・竹中平蔵氏と、コメンテーター・玉川徹氏。この二人の言葉の底流には、感情を不純物として排し、数字とデータのみを絶対的な根拠とする「数値至上主義」が共通して走っている。
竹中氏は2026年1月の提言においても、日本の社会保障制度を「算数が破綻している」と一蹴した。
一方、玉川氏もまた、近年の社会保障議論において、現役世代の負担増を「算数で考えれば、もはや限界を超えている」と指摘。
両氏にとっての「正解」は、常に計算式の解として導き出されるものであり、情緒的な訴えは「計算ミス」に等しい。
2.システムの生存という絶対的聖域 ── 「構造改革」と「生存戦略」が共鳴する場所
竹中氏がかつて断行した「聖域なき構造改革」は、国家というシステムの延命を最優先したものだった。
この「システムの最適化」を優先する姿勢は、玉川氏が繰り返す「国家の生存戦略」と見事に共鳴する。
氏は、エネルギー政策や少子化対策を論じる際も「国家が生き残るためのコストパフォーマンス」を主眼に置く。
両者にとって、政策や平和は、システムを存続させるための最適な「手段」であり、その数値的効率こそが議論の核心となる。
3.「抵抗勢力」と「昭和の価値観」 ── 異論を「排除すべきエラー」として処理する手法
自らの導き出した「合理」を唯一の正解と位置づけるとき、異論は単なる意見ではなく「排除すべきエラー」へと変質する。
竹中氏は、自らの改革を阻む者を「抵抗勢力」と名付け、既得権益の打破を正義とした。対する玉川氏も、自説に反する意見を「昭和の価値観」「不勉強」と切り捨てる。
2025年秋、定員割れ大学の助成金問題を巡り、氏は「市場原理に照らせば淘汰は当然」と主張。自らの知見を「グローバル・スタンダード」や「客観的データ」に置き、異論を「非合理なノイズ」として処理する手法において、両者は完全に同期している。
4.効率の名の下に削ぎ落とされる風景 ── 弱者と地方を「サンクコスト」と見なす視線
この合理主義を支えるのは、常に自分自身を「正解を知る側」に置く特権的な視座である。
玉川氏は2025年11月、終末期医療への過剰なリソース投入について「国家の持続可能性として正しいのか」と疑問を呈した。
これは、かつて銀行の不良債権を強制的に整理・採点してきた竹中氏の冷徹な立ち位置そのものである。
自らを「正義の採点者」に置き、対象を「非効率な存在」として扱う振る舞いにおいて、両者は鏡合わせの存在と言える。
5.効率の名の下に削ぎ落とされる風景
合理主義が最も先鋭化するのは、弱者や地方といった「低効率な領域」への視線である。
竹中氏は、労働市場の規制緩和を「企業の競争力」という最適化のために推進した。
対する玉川氏もまた、非効率な旧態依然とした地域システムを「国家全体の負債」として批判する。
ロジックを突きつける過程でこぼれ落ちる個々の痛みや、かつての日本の風景を、彼らは「避けられない現実(サンクコスト)」として処理する。
6.批判と共鳴のパラドックス ── 竹中平蔵を叩くその刃は、竹中平蔵と同じ形をしていないか
玉川徹氏はかつて、竹中平蔵氏が進めた派遣労働拡大を「中間層の崩壊を招いた」と批判し、利益相反の責任を追及した。
しかし、批判者として対峙しながらも、非効率な存在を「コスト」として切り捨てる玉川氏のロジックは、竹中氏が振るった合理主義の刃そのものである。
彼らが提示する「合理」は、真に社会を救う福音なのか。
あるいは、効率の名の下に異論を封じるための武器なのか。提示されたロジックの先に、どのような未来を描くか。

L『納得感の解剖学|説得の技術者たち』
『知の深淵へ|童話・寓話の解剖学』


