【狂獣の暴走、事実による剥奪】
トン、と木製の分厚い扉から音がする。ドン。そして――バコーン。
扉が悲鳴を上げ、蝶番が弾け飛ぶ。机を蹴り飛ばし、獣の塊が躍り出た
オオカミが、机を跳び越えてペローとグリムに躍りかかる。
「おんどれら、俺をナメ腐りおって!
性的メタファーだの、国民国家の象徴だの……。
俺は、俺は村人を震え上がらせた本物の凶獣なんじゃ!
その汚い首根っこ、今ここで噛みちぎって、どっちが『支配者』か教えてやるわ!」
剥き出しの牙が、ペローの喉元に迫る。
死を覚悟したペローが絶叫し、グリムが辞書を盾に震え上がる。
「……はい、はい、はい」
の声と同時にパン、パン、パン、と手を叩く音が3回した。
全員の視線が、部屋の隅の影に集まる。
そこには、深紅のずきんを重厚なマントのように羽織り、背筋を真っ直ぐに伸ばして立つ女がいた。
「何を驚いているの?」
彼女はゆっくりと、歩幅一つ狂わぬ足取りで三人の中心へと進み出る。
「あたしが、あなた達の低俗な妄想世界から一生抜け出せないとでも思っているの?
愚かだわ。
本当に、想像力というものが欠如しているのね」
ペローが、震える指先で彼女を指す。
「えっ……あ、赤ずきん……なのか?」
「その呼び方はやめて。不快だわ」
彼女は一瞥もくれず、グリムが抱える資料の山を冷たく見下ろした。
「ペロー、あなたの『宮廷の教訓』という名の性癖。
グリム、あなたの『国民国家の形成』という名の独善。
そしてそこの毛深い個体、あなたの『ローンウルフ』という名の逃避。
……いい加減に目覚めなさい。あなたたちが積み上げてきたのは、学問でも文学でもない。
ただの、救いようのない『スケベ心』の堆積物よ」
赤ずきんの、感情を排した乾いた声が、熱狂した空気を一瞬で凍りつかせる。
と同時に、温まった部屋の空気が、扉から一気に逃げ出す。
オオカミの動きが、まるで見えない鎖に繋がれたようにピタリと止まる。
「あんた、今、自分のこと『凶獣』って言った?
笑わせないで。本物の狼は、そんな無駄な吠え方も、見せびらかすような牙の剥き方もしないわ。
あんたのその派手なアクション、ただの『三流ヤクザ映画のコピー』じゃない。滑稽だわ」
オオカミが、赤ずきんを睨む。
「……なんやと! 俺は、俺自身の怒りで……」
赤ずきんはパチン、と指を鳴らす。
「あんたのその威勢のいい広島弁もどきも、聞き飽きたわ。
本物の人喰い狼は、吠えたり脅したりしない。
無言で喉笛を掻き切るものよ。
あんたがそんなに饒舌なのは、『誰かに構ってほしい』っていう、群れを追われた孤独な負け犬の悲鳴にしか聞こえないわ」
オオカミのドスのきいた声が裏返る。
「……な、なんやと?
俺は……俺は死体を片付ける掃除屋として、畏怖されとったんやぞ……」
赤ずきんは無視してペローを指さす。
「で、こっちのフランス産カツラ男。あんたの『宮廷の教訓』。
あれ、結局『可愛い女の子を狼(男)の餌食にしたい』っていう、あんたの歪んだ性欲のパッケージングでしょ?
食べられちゃう女の子を憐れむふりして、脳内では全裸のあたしをベッドに寝かせてた。
『スケベ心の先』にあるのは高尚な教育じゃなくて、ただのオヤジの妄想よ」
ペローは冷や汗を拭いながら
「ま、待て。私は当時の退廃的な風紀を……」
ペローが冷や汗を拭く間もなく、赤ずきんはグリムへ向いた。
「グリム、あんたもよ。言語学者だの国民国家の形成だの、小難しい理屈を並べて『救済の猟師』を登場させたけど。
それ、結局は『力強い男(自分)が、非力な少女を支配下に置く』っていう、父権的な独占欲の表れじゃない。
あたしを腹から取り出して、また別の檻(道徳)に閉じ込めただけ。
あんたの救済は、二度目の監禁よ」
オオカミがボソッと
「……あの、俺の立場は……」
「オオカミ。あんたが一番タチが悪い!
フランス系移民がアメリカまで広めた物語の中で、あんたは『人狼』や『怪物』の要素を削ぎ落とされ、ただの『変質者』に成り下がった。
女装してベッドで待つ?
狼の生態としてあり得ないし、戦術としても三流。
それをやり抜いたのは、あんた自身が『赤ずきん』になりたかったからじゃないの?
自分の毛深い体に、この赤いずきんが似合うと思ってたんでしょ?」
「言い訳は聞きたくないわ。
はい、そこ。元の位置に戻って。
あんたに『死ぬ』なんて贅沢な結末は与えない。
あんたがどれだけ中身のない空虚な化け物か、これからたっぷりと自覚させてあげるから」
赤ずきんは机を指先で叩きながら
「さあ、言い訳タイムは終了。
事実の波状攻撃を喰らいなさい。
まず、そこのカツラ男。
あんたが『宮廷の教訓』なんて抜かしてる間に、中世ヨーロッパの狼被害の記録には何が書かれていたか知ってる?
狼は、子供を『誘惑』なんてしない。
ただの食料として解体しただけ。
あんたがそこに『性的な暗喩』を持ち込んだのは、実害に怯える庶民を救うためじゃない。
ただ単に、サロンの女たちとエロい話で盛り上がりたかった、あんたの私欲でしょ?」
「……い、いや、それは……。当時のフランス社会における、その、若き乙女の処世術としてのメタファーで……」
赤ずきんは冷笑しながら
「で、こっちの眼鏡。言語学者の肩書きが泣いてるわよ。
あんたが『救済の猟師』をねじ込んだのは、国民国家形成の文脈で『ドイツ的な秩序』を称揚したかったから?
笑わせないで。
本当は、フランス系移民が持ち込んだ『少女が自力で狼を騙して脱出する』っていう口承伝承の変遷が、あんたの理想とする『守られるべき無力な女』の像に合わなかっただけでしょ?
あんたの学問は、自分の好みの女を作るための改造手術よ」
グリムは資料を落とし、震える手で拾いながら
「……あ、いや。私はただ、失われゆくゲルマンの魂を……。
地理的分布の偏りを確認した上で、その、最大公約数的な……」
赤ずきんは最後に、正座しているオオカミの鼻先を指差して
「そして、この『ヤクザの面汚し』。
あんたがおばあさんの家を狙ったのは、強者としての狩りじゃない。
『弱そうな相手なら勝てる』っていう、せこい計算でしょ?
しかも女装までして……
あんた、本当は自分が食われる側(お姫様)になりたかったんじゃないの?」
耳を完全に後ろに倒し、床を舐めるように低くなる。
「……すんません。実は、その……」
「……あーあ。どいつもこいつも、ツラ(面)だけは一丁前ね」
彼女の瞳には、かつてペローが夢想した『無垢な処女』の欠片もない。
そこにあるのは、中世ヨーロッパの飢餓と狼被害という地獄を直視し、自力で這い上がってきた女の、底知れない冷たさだ。
「そこの毛むくじゃら。
あんた、さっきから『ローンウルフの矜持』だの『落とし前』だの、ヤクザな台詞を並べてるけど。
狼の生態から言えば、ボス争いに負けた個体の末路は二つしかない。
追われて一人で彷徨うか、群れの底辺でいじめられ続けるか。
あんたはどっちだったの。
誰にも相手にされないから、人間の村に降りてきて、おばあさんの服を着て『自分じゃない誰か』になりきりたかった。そうでしょ?
あんたが一番恐れてるのは、鏡に映った自分の、あまりにも情けない『ただの獣』の姿なのよ」
赤ずきんは、正座させた狼の鼻先数センチまで顔を近づける。
「……ねえ。あんた、どこの出身?」
狼は毒気を抜かれ、ドスの利いた声も出せない。
「……あ? いや、俺はシュヴァルツヴァルト(黒い森)の……」
「目を見て。嘘をつかないでって言ったはずよ」
赤ずきんが机を指先で一回、硬く叩く。
「その無理やりドスを利かせた、付け焼き刃の広島弁……。
あんた、本当はそんな荒っぽい言葉、自分の血肉(ルーツ)にしてないでしょ。
フランス系移民が新大陸へ持ち込み、そこで変質した『悪い狼』のステレオタイプそのものだわ。民間伝承の地理的分布を調べれば一目瞭然よ。
本来、この地の狼はもっと静かで、もっと賢明だった。
あんたのその『ヤクザな演技』は、後付けの創作(フィクション)に毒された結果に過ぎないの」
彼女はゆっくりと立ち上がり、机の上のグリムの資料を指先で弾いた。
「中世ヨーロッパの狼被害の記録を見なさい。
そこに書かれているのは、空腹という生存本能に突き動かされた純粋な獣の姿よ。
あんたみたいに、わざわざ因縁をつけて凄んでみせるような、自意識過剰な喜劇役者じゃない。
……ねえ、本当はどこから来たの?
どの『スケベな人間』の筆先から、その歪んだ自意識を植え付けられたのか、正直に述べなさい」
狼は、もはや広島弁を維持することすらできず、耳をペタンと寝かせて視線を泳がせる。
「……俺、は……。
ただ、みんなが怖がるような、強そうなキャラでいろって、書かれたから……」
「はい、不合格。自分のアイデンティティを他人に委ねるなんて、獣以下ね」
彼女はゆっくりと離れ、部屋の隅にある鏡を指差した。
「鏡を見なさい。そこに映っているのは、中世の記録にある恐るべき捕食者じゃない。
不自然なイントネーションで吠え、人間の服を着て、誰かに認められたいと願う……
ただの『アイデンティティを喪失した迷子』よ。
……悲しいわね」
狼は、項垂(うなだ)れて鼻先を床にこすりつける。
「……すんません……。
俺、本当は……どこから来たのか、もう……分からんのです……」
赤ずきんは視線を、震える学者たちへ移す。
「そして、あんたら。ペローにグリム。
宮廷の教訓だの、国民国家の形成だの、小難しい理屈を振り回して、あたしを『都合のいい女』に書き換えてくれたわね。
でも残念。
あんたたちの筆先がどれだけ踊ろうと、あたしの中に流れてるのは、あんたらが消し去りたかったフランスの原典、狼の肉を喰らって笑う、野良の血筋よ」
彼女は立ち上がり、扉から吹き込む冷気に向かって背筋を伸ばす。
「あんたたちの『スケベ心』が透けて見えるのよ。
あたしを可愛がりたい、支配したい、救ってやりたい……。
その身勝手な欲望が、この壊れた扉から漏れ出してる冷気の正体。
さあ、覚悟しなさい。夜は始まったばかり。
あんたたちの化けの皮、一枚残らず剥いで、その情けない裸を歴史に刻んであげるわ」
ペローは扇子をわななかせ、優雅な、しかし上ずった声で
「お、お待ちなさい、マドモアゼル。……セ・アン・プロブレーム(それは問題だ)。
このウルフは、私のサロンで語られる『洗練された誘惑』の象徴。
教訓(モラル)を伴う、いわば高貴な舞台装置なのです。
それを『新大陸の安っぽい訛り』などと……あまりにノン・シャラン(無頓着)な言い草ではありませんか」
「黙って、エロ本作家。
あんたの言う『洗練』なんて、中世の狼被害の記録にある凄惨な死体を、貴族のスケベな娯楽用にデコレーションしただけでしょ」
分厚い眼鏡を指で押し上げ、グリムが早口のドイツ訛りで
「……シュティムト・ニヒト(承服しかねる)!
彼の言語的変遷は、我々が収集した口承伝承の研究史に基づいた、ゲルマン的ドグマの表出であるべきだ。
ナショナリズムの観点から言えば、そのイントネーションの乱れは、フランス系移民による地理的分布の汚染であり、我々の学術的純粋性を……」
「はい、そこまで。
あんたのその『純粋性』って言葉、自分の好みの女を型にはめたいっていう支配欲の言い換えよね?
文脈(コンテクスト)をこねくり回して、事実をねじ曲げるのはやめなさい。見苦しいわよ」
オオカミは床に伏したまま、消え入りそうな声で
「……あ、あの……。俺、本当はどっちの言葉で喋ればええんですか……。
広島弁もフランス語も、なんか、しっくりこんのです……」
冷ややかな笑みを浮かべ、言葉を一つずつ置くように
「……おかしいわね。宮廷の洗練(ペロー)と、学問の純意(グリム)。
立派な言葉を並べているけれど、中身は空っぽ。
あんたたちの言葉は、中世ヨーロッパの狼被害の記録という血の通った事実から、どれだけ遠い場所で踊っているのかしら?」
ペローは扇子を閉じ、食い下がる
「……マドモアゼル、言葉こそが文明です。
野蛮な事実を、教訓(モラル)という名のドレスで包んでこそ……」
「そのドレス、透けてるわよ。
あんたの語る『教訓』は、結局のところ、ルイ14世下の宮廷で女たちを値踏みするための卑俗な隠語に過ぎない。
あんたのフランス語には、民間伝承の地理的分布の底に流れる、生きるための切実な恐怖なんて一滴も混じっていないわ。
ただの『スケベな比喩』。……違って?」
ペローは言葉に詰まり「……っ……」と喉を鳴らす
「グリム、あんたもよ。国民国家の形成なんて大層な看板を掲げているけれど。あんたがやってることは、歴史の改竄よ。
言語学者としての研究を、自分の『清純な少女への支配欲』を正当化するために消費しているだけ。
あんたのドイツ語は、事実を記述するための道具じゃなく、自分に都合のいい偶像を作るための粘土細工ね」
グリムは眼鏡を外し、顔を真っ赤にして
「……そ、それは、学問的アプローチの一環であって、個人的な……その……」
「声が小さいわ。……ねえ、狼。あんたも何か言いなさいよ。
その不自然なイントネーションで、自分の存在意義を説明してみなさい。
……できないでしょ?
あんたの言葉は、この二人の『スケベ心』が吐き出した、実体のないエコーに過ぎないんだから」
「……俺は……俺はただ……。
どっちの言い分が、俺を一番『強そう』に見せてくれるのか……それだけを……」
「救いようがないわね。言葉を失った獣と、言葉を汚した変態二人。……はい、全員黙りなさい。
あんたたちの言葉遊びが、どれほど無価値で、どれほど罪深いか。
この冷え切った沈黙の中で、じっくり噛み締めなさい」
オオカミが突然キレる。
「……ハッ、ハハッ! 言うてくれるのぉ、姐さん。事実やの、生態やの……。小難しい理屈並べて、俺をただの『迷子の駄犬』に仕立て上げようっちゅうんか?」
彼はフラフラと立ち上がり、剥き出しの牙を赤ずきんに向ける。だが、その足元は生まれたての小鹿のように震えている。
「ええか、俺は……俺は『悪い狼』なんや!
中世の記録に残る、村人を震え上がらせたあの恐怖の権化なんや!
ペローが書いたエロい隠喩でも、グリムがこねくり回した道徳の道具でもねえ! 俺は、俺自身の意志で、おばあさんを食うて、あんたをベッドで待っとったんや……。
そうでなきゃ、俺のこの数百年は何やったんや!
誰かの『スケベ心』の操り人形やったなんて、そんなん、認められるわけなかろうが!」
彼は吠える。しかし、その咆哮は書斎の壁に虚しく跳ね返るだけだ。
「俺は……俺はローンウルフや……。
誰にも頼らず、たった一匹で歴史を駆け抜けてきたんや……。
なあ、そうやろ!? ペロー! グリム!
お前ら、俺をそう書いたやろ!?否定せんといてくれや!」
彼は、すがりつくように著者二人を振り返る。
しかし、赤ずきんに「事実」を突きつけられた二人は、もはや狼と目を合わせることすらできない。
「……す、スキャンダルだ。私の洗練された狼が、これほどまでに野暮な泣き言を……」
「……異常個体の、言語学的崩壊だ。記録に値しない、ただのノイズだ……」
「……っ! おんどれら……! 俺を……俺を一人にするなや!」
狼は、最後に残った力を振り絞り、赤ずきんに向かって飛びかかろうとする。
しかし、彼女が微動だにせず、ただ憐れみのこもった冷徹な瞳で見つめ返した瞬間、彼の膝はガクガクと崩れ落ちた。
「……違う。俺は……。
俺は、ただ……。おばあさんの家の温かいスープが……
誰かと囲む食卓が……欲しかっただけなんや………… 俺は……俺は……」
「……言い訳は聞き飽きたわ。はい、元の位置に戻って」
赤ずきんは、ペローとグリムに向き直る。彼女の眼差しは、逃げ場のない「真実」を突きつけていたからだ。
「さて。この出来損ないの化け物を生み出した、あんたたちの不潔な妄想(スケベ心)……。
それを一滴残らず絞り出す作業を始めましょうか」
彼女は机の上に散らばった中世の狼被害の記録を、まるで見せしめの処刑道具のように一瞥した。
「ペロー、あんたのその震える指先で、次の資料を出しなさい。
グリム、あんたもよ。
学者の端くれなら、自分の捏造がいかに無様か、その目に焼き付ける準備はできているわね?」
外からは、壊れた扉の隙間から冷たい風が吹き込み、三人の背中を容赦なく叩く。
赤ずきんの「毒演(授業)」は、まだ序の口に過ぎなかった。
宮廷の逆襲 ― ペローの華麗なる詭弁
震えていたペローが、ふっと鼻で笑い、優雅な手つきで剥げかけたカツラを整え直した。その瞳には、一国の王に仕えた男の、傲慢なまでの光が宿っている。
「……マドモアゼル。
失敬な物言いはそこまでにしていただこうか。
貴女の言う『事実』など、宮廷のサロンでは、豚の餌にもなりはしない」
彼は閉じた扇子で、机に広げられた中世の狼被害の記録を、汚物でも見るかのように払いのけた。
「よろしいか。私はルイ14世下の宮廷において、野蛮な民衆の泥臭い話を、不滅の芸術へと昇華させたのだ。
狼が実際にどう人を喰うかなど、どうでもいい。
重要なのは、その狼が『何を象徴するか』だ。
私の描いた『赤』は、ただの染料の色ではない。
それは、無知ゆえに誘惑の淵に立つ少女の危うさ、そして、それを虎視眈々と狙う貴族たちの情欲……その完璧なメタファーなのだよ」
彼は赤ずきんを真っ向から見据え、朗々と謳い上げる。
「事実が何だというのだ。
事実は死ぬが、言葉は生き続ける。
私の『教訓(モラル)』こそが、野放図な欲望に秩序を与え、文明を形作った。
貴女を、ただの『おばあさんの肉を喰う野蛮な娘』から、全ヨーロッパが愛し、同時に戒めとする『聖なるアイコン』へと変えてやったのは、この私の筆だ。
感謝こそされ、糾弾される筋合いはない。
……私の『スケベ心』だと?
違うな。それは、混沌とした世界を美しく統治せんとする、至高の知性だ!」
ペローは勝ち誇ったように胸を張り、グリムをチラリと見て、さらに言葉を重ねる。
「ドイツの学者がこねくり回す退屈な整合性とは違う。
私の赤ずきんは、ヴェルサイユの鏡の間でさえ、誰よりも輝く存在なのだ。
……さあ、反論があるかな、我が愛しき『最高傑作』よ」
ヴェルサイユの残飯
ペローが勝ち誇ったように扇子を広げ、優雅な一礼を終える。
書斎の冷気さえも、彼の纏う「教訓という名の香水」で一瞬和らいだかのように見えた。
しかし、赤ずきんは動じない。
むしろ、その哀れなピエロを見るような目が、さらに冷徹さを増していく。
「……終わった? その、中身スカスカな演説」
彼女は机の上に置かれた、ペローの豪華装丁本を指先で汚物のように弾いた。
「『至高の知性』? 笑わせないで。
あんたが赤ずきんに『赤い頭巾』を被せた本当の理由、教えてあげましょうか。
当時のフランス宮廷で、赤は『売春婦』や『ふしだらな女』を識別するための印でもあったのよ。あんたは無垢な少女を象徴化したんじゃない。
自分の性癖に都合のいい『誘惑されるべき対象』として、最初からあたしに『汚れた女』のレッテルを貼ったのよ。
それが、あんたの言う『芸術による統治』の正体ね」
ペローの顔から、みるみる血の気が引いていく。
「それに、あんたの『教訓』。
あれ、本当は誰に向けたもの?
ルイ14世の寵姫争いに明け暮れる、あのドロドロした宮廷のスキャンダルを揶揄して、王の機嫌を取りたかっただけでしょ。
政治的な立ち回りのために、あたしを『無知な田舎娘』として消費した。
あんたの筆先にあるのは文明なんかじゃない。
ただの、権力にすり寄るためのゴシップよ」
赤ずきんは一歩、逃げようとするペローににじり寄る。
「事実が死ぬ?いいえ、事実は死なないわ。
あんたがどれだけ優雅な言葉で飾り立てようと、中世ヨーロッパの狼被害の記録には、狼に食い散らかされた子供たちの叫びが刻まれている。
あんたはその叫びを、サロンの笑い声に変えたのよ。
自分の『スケベ心』と『出世欲』のためにね。
……ねえ、ペロー。あんたのその『至高の知性』、今の冷気に耐えられるほど、厚みがあるのかしら?」
ペローの扇子が、カタカタと音を立てて震え始める。
ヴェルサイユの鏡の間を夢見ていた男の足元から、当時の不潔な路地裏の悪臭が立ち上ってくる。
ゲルマンの独善 ― グリムの自爆
ペローが扇子を落とし、青ざめて絶句する横で、グリムが勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
分厚い眼鏡の奥の目をギラつかせ、これ見よがしに重厚な『ドイツ語辞典』の校正刷りを机に叩きつける。
「ハッ! 案の定だ。マドモアゼル、君の指摘は鋭い。
やはりフランスのサロン文化など、虚飾と痴態にまみれたデカダンス(堕落)の産物に過ぎん。
ペロー、君の『赤ずきん』は、あまりに不潔で、あまりに個人的な情欲に汚れすぎている!」
グリムは胸を張り、朗々と、しかしどこか独善的な調子で言葉を継ぐ。
「我々ドイツの学問は違う。我々が収集したメルヒェンは、民衆の魂の叫びだ。
私は言語学者としての研究に基づき、失われゆくゲルマンの古き良き道徳を救い出したのだ。
私が加えた『猟師による救済』は、ペローのような卑俗なメタファーではない。
それは、混迷する欧州において国民国家の形成を促す、強き父権的秩序の象徴なのだよ。我々の物語こそが、正しく、清く、そして学術的に純粋な……」
「……はい、そこまで」
赤ずきんの冷徹な声が、グリムの熱弁をナイフのように切り裂く。
「あんた、今『純粋』って言った?
鏡を見てから言いなさいよ、その傲慢な顔」
赤ずきんは、グリムが宝物のように抱える資料の一枚を、指先で無造作に弾き飛ばした。
「あんたの言う『ドイツ的道徳』。
それ、単に『言うことを聞く、従順な女』を大量生産したかっただけでしょ?
猟師という名の『公権力』に助けられ、おとなしく家の中に収まる人形。
あんたが書き換える前の民間伝承の地理的分布を調べれば、フランスから流れてきたもっと逞しい、男を出し抜く少女の姿がいくらでも出てくる。
あんたは学問の名を借りて、あたしの『野生』を去勢したのよ。
……それも、立派な支配欲。
つまり、あんた特有の『スケベ心』の変種よ」
「国民国家の形成?
笑わせないで。あんたがやったのは、民衆の声を拾うことじゃない。
自分の理想とする『管理しやすい国民』という名の雛形に、あたしを無理やりハメ込んだだけ。
グリムの顔から、みるみる赤みが引き、今度は土気色に変わっていく。
ペローが『愛人』を求めたなら、あんたは『奴隷』を求めた。
……どっちがマシかしらね?」
最終章:剥き出しの寓話
かつて「物語の父」と呼ばれた二人の老人は、崩れ落ちるように床にへたり込んでいた。
「俺……俺、やっぱりどっちにもついていけねえ……」
足元では、オオカミが情けなく鼻を鳴らしていた。
尻尾を股に挟み、誰の味方にもなれないまま、ただ怯えた犬のように震えている。
法典という「国家の服」を纏っていたグリムと、美辞麗句という「芸術の服」を纏っていたペロー。
しかし、今の彼らの姿にその威厳はない。
赤ずきんの鋭い追求によって、その「知性のドレス」はボロ切れのように引き裂かれていた。
赤ずきんは、手にした最後の一葉を冷たく見下ろし、二人へ軽蔑の視線を投げかけた。
「あんたたちが国家や芸術という服を脱いだら、そこに残るのは、ただの凍えたスケベな年寄り二人ね」
グリムは震える手で頭を抱え、ペローは言葉を失い、ただ口をパクパクとさせている。
オオカミは、無視されている今だとばかりに、扉ににじり寄る。
赤ずきんは、カツカツと靴音を響かせ、ドアの前に立ちふさがった。オオカミは膝をつき直す。
そして、絶望に沈む彼らの前に、まだ分厚い束のまま残っている記録簿をドサリと置いた。
そして、凍りつくような微笑を浮かべて告げる。
「さあ、次のページをめくりなさい。
まだ暴いていない中世の記録、地理的分布、狼の生態……。
事実という名の授業を、今から始めてあげる。
一文字も聞き漏らさないことね。……いい?」


