菊池寛が選んだ“いない二人”の名前
1935年(昭和10年)。 文藝春秋社は、二つの文学賞を同時に創設した。
芥川賞と直木賞。
いまでは日本文学の中心にあるこの二つの賞だが、 創設の瞬間、 その名を冠した二人の作家は、すでにこの世にいなかった。
芥川龍之介は1927年に自死し、 直木三十五は1934年に急逝していた。
それでも菊池寛は、 あえて“いない二人”の名を選んだ。
そこには、 彼自身の三つの感情があった。
1. 芥川龍之介──悔恨の記憶
1910年、東京帝国大学英文科。 菊池寛と芥川龍之介は、 同じ教室で夏目漱石の講義を受けていた。
芥川の早熟な才能に、 菊池は嫉妬しながらも深い敬意を抱いていた。
しかし1927年、 芥川は「将来に対する唯ぼんやりした不安」を遺し、 服毒自殺を遂げる。
菊池はその死を止められなかったことを、 生涯「痛恨事」と語った。
芥川賞は、この悔恨と敬意を未来へ残すために生まれた。
2. 直木三十五──愛情と感謝
1923年、文藝春秋創刊。 直木三十五は、 事件記事、娯楽小説、映画脚本、社会ルポ…… “千手観音”のように同時に複数の仕事をこなし、 創刊期の文藝春秋を支えた。
破天荒な借金癖で何度も窮地に陥ったが、 菊池は叱りながらも毎回肩代わりした。
直木の入院中には、 体温がラジオで全国放送されるほどの人気があった。
1934年、直木は結核性脳膜炎で急逝する。
菊池は語った。
「直木の名は忘れられてはならぬ」
翌年、直木賞が創設される。
直木賞は、 菊池寛の愛情と感謝の monument(記念碑)だった。
3. 志賀直哉──崇拝と規範
菊池寛にとって志賀直哉は、 若い頃から「小説の神様」と呼ぶほどの存在だった。
その簡潔で透明な文体は、 菊池にとって“文学の規範”だった。
1935年、芥川賞の選考委員の筆頭に志賀を据えたのは、 菊池が志賀を 「純文学の北極星」 と見なしていたからだ。
志賀がそこに座っているだけで、 賞に格調が生まれる。
菊池は、 芥川の死と直木の死を悼みながら、 志賀の“生きた権威”を制度に組み込んだ。
4. いない二人の名を冠した理由
芥川は死んだ。 直木も死んだ。
だが、 菊池寛は“いない二人”の名を選んだ。
それは、 「文学は人を失っても続く」 という、菊池の信念の表明だった。
当時の文壇では「死んだ人間の名前を賞にするのはいかがなものか」という反対意見もあった中、菊池寛が強引に押し切った
そして同時に、 「文学は生きている者だけのものではない」 という、静かな宣言でもあった。
芥川賞は、芥川の死を悔いるために。 直木賞は、直木の名を残すために。 そして志賀直哉は、 その二つの賞を照らす“生きた規範”として選ばれた。
5. ここから始まる物語
芥川賞と直木賞は、 三人の作家の“死”と“生”が交差して生まれた。
- 芥川龍之介──悔恨
- 直木三十五──愛情
- 志賀直哉──崇拝
この三つの感情が、 日本文学の地図を描き変えた。
そしてこの物語は、 やがて二人の最期の言葉へと向かっていく。
志賀直哉「もう、いいよ」 直木三十五「書けない」#naoki
その対比こそが、 このシリーズの終着点になる。
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