私たちが知る『シンデレラ』は、奇跡を待つだけの可哀想な少女でした。
しかし、もし彼女が「いじめ」を実験と呼び、姉たちの笑顔のために泣き真似を練習していたとしたら?
本作は、ペロー版の残酷さとディズニーの華やかさを下敷きに描き直された、もう一つの物語。
王子を狂わせたのは、運命の愛ではなく、計算し尽くされた「足元の魔法」――。
幸せな結婚式の裏側で、王妃となった彼女が今も後悔している「たった一つの誤算」とは。
ガラスの靴が奏でる、冷たくて甘い「蜜の味」を、あなたにお裾分けしましょう。
序章【現在】
「鏡よ、鏡、鏡さん……。なんて……ふふ、このセリフ、あの方のものだったわね」
自嘲気味な笑みがこぼれる。
「お城へ招かれた幸せな姫のセリフじゃなかったわ。そうでしょ、フェアリー?」
問いかけに、返事はない。
王女の私室。差し込む朝の光の中、彼女はガラスの靴の輪郭を指先でなぞった。
「今思い返しても、心残りなのは……あのことだけ……」
靴を指先で弾く。
――チィン。
冷たい音が、静まり返った部屋に溶けて消えた。
「そういえば……小さい頃は『灰被り』なんて呼ばれていたかしら」
すべては、あの頃から始まっていたのかもしれない。
第一章【幼少期】継母の家長宣言
継母が初めて居間に足を踏み入れた日のことを、私は今も鮮明に覚えている。おとうさまは、その後ろを三歩下がってついてきた。浮かべていたのは、見たこともないような締まりのない笑み。
「あなたたち、よ~く聞きなさい。きょうから、この家の家長はわたくしですよ」
継母が家族全員の前で高らかに宣言した。
(おかあさまは、白くて透き通るようなお肌、お美しいお顔、なのに、その美しい姿から、立ち上る黒いもやもやは何なのかしら)
と小さな胸の奥でつぶやく。
「シンデレラ、わかったわね」
射抜くような眼光に気圧され、
「はい、お母様」
と答えた瞬間、継母が満足げに、フン、と鼻を鳴らした。
第二章 いじめと実験
その日から、お姉さまたちの、わたしの大切なものを壊したり、無理難題を押し付け始めたの。
でも、嫌いじゃなかった。だって、お姉さまたち、あんなに嬉しそうなんだもの。
喜んでもらおうと、わたしも一生懸命泣きまねの練習もしたわ。
涙の数の分だけお姉さまたちの、楽しそうなお顔の数が増えていったから。
そんなある日、お姉さまたちは、わたしの泣き顔みて満足げに暖炉の前から去っていった。
膝を抱えたままじっとしていると、どこからともなく甘い香りが漂ってきた。
(…また、あの匂い。いつも誰かが、私を見ているような……)
突然、光が差し込んできた。
光と共に現れた女性は、うっとりと声を漏らす。
「ああ……! 本物だわ! 間近で見ると、その煤(すす)に汚れたお顔すら、なんと神々しいのかしら!!」
「いい、シンデレラ。あなたはね、王子様と結ばれる運命にあるの。これは決定事項、絶対なの!絶対に覆らない運命なのよ!」
激しい独白は続く。
「私、あなたのこと、ずーっと見ていたわ。あなたが灰の中でどれだけ賢く、どれだけ美しく耐えてきたか、全部知っているんだから! 今日からは私が全力でお守りします。あなたのためなら、星だって掴んでくるし、国の一つや二つ、あなたの足元に跪かせてあげるわ。さあ、何でも言って。あなたの望みは、私の命なんだから!」」
顔を上げる。一瞬だけ、本当に一瞬だけ、驚いて。
「……フェアリーね、おかえり」
第三章【舞踏会前夜】
そんな時、王宮からの舞踏会への招待状が届いた。
継母がその封を開けた。招待状を高々と掲げ、二人の姉に向かって言い放つ。
「私があなたたちを、頂点へ導いてあげます。
私の力をもってすれば、たやすいことよ。
私が用意した、その黄色いドレスでね」
その頃、黄色いドレスは富の証だった。
姉たちが歓声を上げる。シンデレラには見向きもしない。
「とにかく、ドレスに合うようにやせなさい。ウェストの細さは美の象徴なのよ」
断食が始まった。コルセットの紐が、一本、二本と弾け飛ぶ。三本目、四本目。シンデレラはその紐を、黙って締め上げ続けた。
十二本目が切れた時、姉たちは満足そうに鏡を見た。
第四章【1日目】
「お姉様たち、その黄色いドレスなら、会場で一番輝きますわね?」
「もちろんそうよ。これこそが最先端! こんなに鮮やかな黄色を纏えるのは、私たちくらいのものよ」
姉たちは自慢げに答えると、意気揚々と馬車へ乗り込み、舞踏会へと出かけて行った。
家の中が静まり返る。シンデレラは動かない。いつも通りに。
そこへフェアリーが囁く。
「今夜の会場、黄色で溢れかえってたわよ。……私の言った通りにね」
深夜。憔悴しきって帰宅した姉たちを、シンデレラは出迎えた。
「今までは淡い赤や水色のドレスばかりだと聞いていたのに! どこもかしこも黄色ばかりで、ちっとも目立たなかったわ!」
「こんなドレス、もう嫌よ!」
上の姉が癇癪を起こした。
「……でしたら、お姉様。私、舞踏会の気分を一度でも味わってみたいのです。そのドレス、私に貸していただけませんか?」
姉は、反射的にドレスを胸に抱き寄せた。
「誰が……あんたなんかに! 灰被りのくせに……」
少しだけ、沈黙が流れた。
「そうですよね。私には不釣り合いですもの」
シンデレラは淡々と、けれど言葉を継ぐ。
「では代わりに、お姉様方が一番目立つように、飾りを付けて差し上げましょう」
シンデレラは一晩かけて、姉たちのドレスを美しく「仕上げ」た。
翌朝。完成したドレスに身を包んだ姉たちが、鏡を見て感嘆の声を漏らす。
「……あら、これなら舞踏会でも目立つわね」
彼女たちはすこぶる上機嫌になり、満面の笑みでそのドレスを眺めていた。
第五章【2日目】
完璧な装いに仕上がった姉たちが、意気揚々と夜の闇へ消えていく。
馬車の音が遠ざかり、家の中がしんと静まり返った。その瞬間、シンデレラが口を開く。
「フェアリー、私の番よ」
「ええ、シンデレラ。私に任せなさい。二頭立て? 冗談じゃないわ、みすぼらしくて話にならない。四頭立て? その辺の貴族と同じよ、あなたには似合わない。……六頭立て以外、あり得ないわ」
フェアリーは熱を帯びた声で続ける。
「王族か、それに準ずる者だけに許される最高位の格式。会場に着いた瞬間、誰もあなたの出自など疑いもしない。馬車そのものが、あなたの高貴さを雄弁に語るのだから!」
召喚されたカボチャ、ネズミ、トカゲが、一瞬にして形を変える。
黄金の馬車。六頭の白馬。一人の御者と、六人の従者。
「そして一番大事なのは、あなた自身よ。灰被りのままで行かせるわけがないでしょう!」
現れたのは、白い絹サテンに金糸の刺繍を施した、繊細な絹チュールのドレス。
「黄色が溢れかえる会場で、あなただけが『白』を纏うの。誰よりも誠実で清廉、そして高貴。このガラスの靴が、その白をさらに神々しく輝かせるわ」
差し出されたのは、一足のガラスの靴。
「これだけは別格よ。私があなたのために調達してきた『本物』。魔法が解けても、これだけは絶対に消えたりしない」
フェアリーは最後に、艶めいた声で付け加えた。
「それから、シンデレラ。王子様はご婦人の『足』には、特にお目が高い方なの。……忘れないでね」
フェアリーがその全魔力を注ぎ込み、決して割れないよう頑丈にその靴を作り上げたことを、シンデレラはまだ知らない。
身支度を整え、シンデレラは馬車に乗り込んだ。
閉まった扉の音が、静寂の中にやけに重く響き渡った。
第六章【舞踏会】ガラスの音
会場を埋め尽くす「黄色」のさざ波の中、真っ白なドレスとガラスの靴が「カツ、カツ」と異質な硬い音を刻む。
その音に導かれるように、人波が静かに割れた。
当時、宮廷でダンスを舞うことは、単なる娯楽ではなかった。複雑なステップを正確かつ優雅に踏みこなすことこそが、その者の知性と品格の証明だったのだ。貴族たちは幼少期から厳格な師に付き、その足捌きを叩き込まれる。舞踏会はその苛烈な修練の成果を披露する場であり、どれほど贅を尽くしたドレスを纏おうとも、ステップひとつ乱れればその者の品格は地に落ちた。
その夜、誰もが認める宮廷随一の名手は、王子だった。
長身で逞しい肩幅を持ちながら、誰よりも優雅な足取りで歩む。音楽が鳴り始めれば、その動きには一切の無駄がなく、しなやかで、まるで音楽そのものが人の形を成したかのようであった。
令嬢たちは彼と踊るだけで、自分が世界で最も美しくなったような錯覚に陥る。姉たちが揃って息を呑む気配が、シンデレラの耳にも届いた。
その王子が、ふと足を止めた。
白いドレスの裾から覗く、ガラスの靴。いまだかつて目にしたこともない、そのしなやかな脚(あし)を見た瞬間、彼は吸い寄せられるように彼女のもとへと歩み寄っていた。
王子の視線は、足首から踵の曲線へ。ガラス越しに透けて見える、完璧な足の甲へ。それからゆっくりと、はるか上の顔へと這い上がった。
だが、顔を見た後でさえ、その視線は吸い付くようにまた足元へと戻ってしまう。
王子は、その場に片膝をついた。跪きながらも、その瞳はひたすらガラスの靴を凝視していた。
「この素晴らしきガラスの靴の主(あるじ)と、踊る栄誉を私に許していただけますか」
第七章【舞踏会】共鳴するステップ
ダンスが始まった。
王子のステップは複雑怪奇で、それでいて完璧なまでに正確で、美しかった。会場の誰もが息をつく暇もなく、その流麗な動きを目で追った。
しかし、シンデレラは一歩も引かなかった。
ガラスの靴が硬い床を叩くたび、「カツ、カツ」という硬質な音が、音楽を切り裂くように響き渡る。その音は王子の刻むリズムと完全に同期し、まるで最初からそう定まっていたかのように、二人の動きは一つに溶け合っていった。
会場は、水を打ったように静まり返る。
姉たちも、並み居る令嬢も、誇り高き貴族たちも、誰もがその光景に息を呑んだ。宮廷随一の名手と、真っ白なドレスを纏った謎の美女が、互いに一歩も譲らず、火花を散らすように踊り続けている。
王子の瞳は、しかし、一度として彼女の足元から離れることはなかった。
まるで、意志を持ったガラスの靴そのものが、シンデレラを踊らせているかのように――。彼女のステップは、あまりにも精密で、人間離れした美しさを放っていた。
第八章【逃走】
フェアリーの声が、鋭く耳元に届いた。
「今すぐ離脱して!」
シンデレラは踊りながら、王子の顔を一瞬だけ捉えた。
彼女は鮮やかに踵を返した。
背後で王子が何かを叫ぶ。その声は背中に届いたが、彼女の足が止まることはなかった。
夜風を切り、階段を駆け下りる。
その刹那、片方の靴が足から離れ、宙を舞った。
——割れる音を待った。
石畳に叩きつけられたガラスが、粉々に砕け散る音を。痕跡が消える音を。王子が「幻だった」と悟る音を。
しかし。
「コツン」
響いたのは、乾いた、あまりに硬質な音だった。
シンデレラは一瞬だけ、足を止めた。振り返りはしなかった。だが、その音の持つ意味を瞬時に理解した。
――割れなかった。
コンマ数秒の静止の後、彼女は再び走り出した。
城の門をくぐり抜けた時、シンデレラの姿はすでに元の「灰被り」へと戻っていた。
門番の目には、ただ一人の貧しい娘が夜の闇へと消えていく姿だけが映っていた。
第八章 ふんわりと包む手
王子は国中を執拗に探し回った。
片方だけ残されたガラスの靴を手に、身分を問わず、あらゆる女の足に試させた。だが、どれも合わなかった。それは当然の帰結だった。
シンデレラは家で待っていた。いつも通りに、静かに。
やがて、王子がその使いの者を伴って屋敷に現れた。
姉たちが次々と足をねじ込もうとしたが、靴はそれを受け入れない。
使いの者が問いかけた。「他に、この家に娘はいないか」
継母は苦い顔をしたが、それでもシンデレラは呼び出された。
シンデレラは椅子に深く腰掛けたまま、微動だにしなかった。
傍らにいた王子が、誰に命じられるでもなくその前に跪いた。
使いの者が持っていた靴を自らの手に取り、恭しく差し出す。
シンデレラは、ただ静かに足を差し出した。
その瞬間、靴が意志を持ったかのように、自ら彼女の足に吸い付いた。
完璧な一体化。
部屋の中の空気までもが、凍りついたように静まり返った。
シンデレラは、ポケットにそっと手を入れた。
そこから、もう片方が現れた。
誰もが息を呑み、言葉を失った。姉たちも、継母も、使いの者でさえも。ただ呆然と。
彼女がもう一方の足へ、流れるような動作で靴を滑り込ませる様を見つめることしかできなかった。
シンデレラは、ゆっくりと立ち上がった。
その瞬間、視線の高さが逆転した。
未だ跪く王子を、シンデレラが静かに見下ろしている。
彼女は、震える王子の両手をふんわりと上から包み込んだ。
その柔らかな感触、その温かさに、王子は我を忘れた。
(この脚を、この女性を、決して誰にも渡さない)
今宵でなければならない。今宵しかないのだ。
突き上げるような激情に、王子は身を焦がした。
これこそが運命なのだと、魂が叫んでいた。
ふっと、シンデレラの頬に微かなエクボが浮かぶ。
王子はただ、息を呑んでその微笑みを仰ぎ見た。
(ああ、この微笑みこそが、私の世界のすべてだ)
第九章 結婚式
式は、空前絶後の盛大さであった。
国中から祝辞が届き、歓喜の鐘が鳴り響き、空には絶え間なく花びらが舞った。
白馬に引かれた豪華な馬車が城門をくぐる。沿道の民衆は割れんばかりの歓声を上げ、子供たちは無垢な手で花を撒く。誰もが笑顔を浮かべ、誰もが幸福の絶頂に酔いしれていた。
姉たちもまた、その式に招かれていた。
彼女たちはそれぞれ、フェアリーが手配した名門貴族の妻として、夫の腕に抱かれている。
最高級の衣装に身を包んだ二人は、涙を浮かべて花嫁を見送った。
「……なんて、お綺麗なのかしら」
上の姉がうっとりと囁くと、下の姉も深く頷く。
かつて抱いていた醜い羨望や憎しみは、その瞳から欠片も消え失せていた。
そこにあるのは、フェアリーによって与えられた「身分相応の幸せ」に毒気を抜かれた、純粋すぎるほどの祝福のみ。
しかし、その微笑の奥に、ほんの一瞬、別の感情がよぎった。
そのとき、シンデレラはふと振り返り、姉たちへ向けて微笑んだ。
姉たちは、そのあまりに慈愛に満ちた微笑みに心を射抜かれ、さらに涙をこぼした。
王子は愛おしげに花嫁の手を取り、その瞳を深く見つめる。
シンデレラは、ただ、微笑んでいた。
きらきらと、視界が白むほどに眩しく。
彼女は、ただ、微笑み続けていた。
終章【現在・結末】
「……まさか、あの時ガラスが割れなかったなんて。想像もしていなかったわ」
鏡の中の自分を見つめ、彼女は静かに独りごちる。
「そうだったわね、フェアリー……」
問いかけに、返事はない。
そういえば、あの結婚式を境に、フェアリーは私の前から姿を消したのだ。
「けれど、私の人生で唯一後悔しているのは、あの瞬間にガラスの靴が割れなかったこと。……ただ、それだけね」
シンデレラは、かすかに、しかし艶やかに微笑む。
「もしもあの時、靴が粉々に砕け散ってさえいれば……。もう少しだけ、あの王子を焦(じ)らせ、跪(ひざまず)かせることができたのに」


