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説得の技術者たち ーー(田崎史郎)

5番街と西54丁目の交差点にあるストリートサイン メディア・言説の解剖学
ニューヨーク・ミッドタウンの象徴的な交差点の一つ、5番街と西54丁目付近の風景です。このバス停からは、ブルックリン南部のキングス・ベイやジェリッツェン・ビーチ、スプリング・クリークなどへ向かうBM系MTA急行バスが出ています。
メディア・言説の解剖学
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内懐の純化(権力への同化)

第一章 永田町という「聖域」の体現者


政治の混迷が深まる中で、茶の間のテレビ画面には欠かせない「顔」がある。政治ジャーナリスト、田崎史郎氏だ。


彼の説得力を支えているのは、単なる弁舌の爽やかさではない。

1973年の時事通信社入社以来、半世紀以上にわたって永田町という特殊な磁場に身を置き、呼吸を共にしてきた「歳月の重圧」がその背景にある。

平河クラブ(自民党担当)のキャップを務め、中曽根康弘、竹下登、安倍晋三といった歴代の総理大臣たちの懐に深く飛び込み、「食」を共にし、電話一本で通じ合う。

時に「政権の代弁者」と目されるほどの信頼関係を築き上げてきた。その特異な距離感こそが、彼の語りに抗いがたい質感を付与している。

それは、情報の真偽を超えて、視聴者に「この人だけが真実の裏側を知っている」という錯覚に近い信頼を抱かせる。

視聴者は、彼が語る「昨夜の会食のメニュー」や「ふとした表情の機微」といった断片の中に、そこでどんな「密談」が交わされたかという、生々しい人間模様なのだ。

公的な会見では決して見えない「権力の体温」幻視する。

第二章 思考の純化 ―― 複雑な政局を「永田町の論理」で染め上げる

田崎氏の解説において、中核をなすのは「政治は結局、人間関係である」という極限までの要約力だ。

政策の是非や国家の理念といった難解な事象も、彼のフィルターを通すと、す「誰が誰に義理を欠いたか」「誰がどの椅子を欲しているか」という、剥き出しの人間ドラマへと置換される。

視聴者が複雑な法案の内容に迷い、立ち止まる隙を与えない。

彼はかつて、自身の著書やプロフィールにおいても、権力の中枢にいる人物との「食を通じた対話」を重視することを説いている。

その膨大な密談の記憶から、情報を極限までシンプルに削ぎ落とす手口は極めて鮮やかだ。

その膨大な密談のアーカイブから、彼は大衆が理解可能な「感情の力学」だけを鮮やかに抽出する。
「これは政策の議論ではなく、首相のメンツと意地の問題だ」
そう断言されるとき、視聴者の脳内にある複雑な霧は一掃される。

高度にパッケージ化された「わかりやすさ」という劇薬は、情報の受け手に「自分は今、権力の中枢で行われている真実を解読した」という一種の全能感さえ抱かせる。

第三章 対立の構図 ―― 「内側」と「外側」の境界線

田崎氏の説得術において、もう一つの柱となるのは、鮮烈な情報の切り分けだ。

その手法が最も際立つのは、ワイドショーなどで一般感覚に近い批判が政府に向けられた際に見せる、少し困ったような笑みだ。

「理屈はわかりますが、現実の政治はそうはいかないんですよ」

この一言で、画面の中には明確な境界線が引かれる。

永田町の冷徹な力学を知る「現実主義者」としての田崎氏と、そこから取り残された「理想主義的な外部」。

彼は常にその視点を政権の中枢と同期させることで、情報の受け手を「内側の論理」へと誘い込む。

視聴者は、彼が描写する「権力者の孤独な決断」に触れることで、知らず知らずのうちに批判者の立場を捨て、「統治の論理」に加担する共犯者としての快楽へと誘われていく。

そこには、複雑な国政を「動かす側」「文句を言う側」という二極のドラマが立ち上がり、視聴者の意識は知らず知らずのうちに、彼が設定した「現実」のレールの上へと誘導されていく。だ

第四章 感情の増幅 ―― 特別感という名の「共犯意識」

その解説の底流には、視聴者の「自分だけは特別でありたい」という欲求を静かに、かつ確実に揺さぶる仕掛けが組み込まれている。

多用されるのは、「これは表には出せない話ですが」「実は総理に近い筋からはこう聞いています」といった、情報の「秘匿性」を強調するフレーズだ。

人間には、自分だけが情報の輪の内側に招かれることに対して、本能的な優越感を覚える性質がある。田崎氏は、長年の取材で築いた権力とのパイプを使いながら、その根源的な特権意識を巧みに刺激する。

「実は、あの発言の裏にはこういう密約があったんです」という提示。

これは単なる知識の提供ではない。視聴者の「自分は裏事情を知っている」という当事者意識を煽り、感情の温度を一段階引き上げるための演出である。

一度この「情報の特等席」に座らされた視聴者は、彼が次に何を語るのか、一言一句を逃すまいと画面に釘付けになる。

理性が情報を精査する前に、感情が「この人の話を聞き続けなければならない」という指令を下すのである。

第五章 鏡の中の「需要」 ―― 誰が彼を王座に据えたのか

ここまで見てきた三つの技術――思考の純化、対立の構図、感情の増幅。

これらを使いこなす田崎史郎氏は、確かに卓越した「説得の技術者」である。しかし、ここで一つの問いが浮かび上がる。

果たして彼は、一方的に大衆を「誘導」しているだけなのだろうか。

視点を換えれば、別の歪んだ真実が露わになる。彼はただ、現代社会が心の底で渇望している「安易な真実」を、最も精巧な形で供給しているに過ぎないのではないか。

私たちは、理想を語る政治の重苦しさに疲れ、手っ取り早く「裏側」を覗き見たいと願っている。

そして、複雑な国政を自分事として考える責任から逃れ、高みの見物ができる「政局エンターテインメント」という劇薬を求めている。

田崎氏という技術者は、その巨大な「思考放棄の需要」に応えているだけなのだ。

彼を「永田町の代弁者」に仕立て上げ、その座に君臨させ続けているのは、他ならぬ、政治を「消費」の対象へと貶めた私たち自身の欲望である。

彼を批判的に見ることは、鏡に映った自分たちの「諦め」を直視することに他ならない。

第六章  その「正解」は、誰のものか

彼が駆使する技術の中で、最も核心にあるのは「内側への同化」だ。

私たちは、彼を「権力に近いジャーナリスト」だと思っている。しかし、ここにある種の倒錯が存在する。

実は、彼は「情報を伝える側」ではなく、すでに「情報を生み出す側」の一部、すなわち「政治の舞台装置」そのものと化しているのではないか。

彼がテレビで語る「総理の意向」は、単なる事後の解説ではない。。

彼の発言そのものが、世論の反応を探るための観測気球であり、時には政治家同士の伝言板として機能している。

つまり、私たちは「政治の裏側」を教えてもらっているのではなく、彼が語ることによって形作られる「新しい政治の現実」をリアルタイムで見せられているに過ぎないのだ。

彼が示す「リアル」は、数多ある事実の中から、政治というシステムが存続するために選別された一つの「演出された真実」に他ならない。

次に画面の中で微笑む彼の解説を耳にするとき、その「穏やかな語り」の裏側で、一体何が進行しているのか。

私たちが「これで裏事情がわかった」と溜息をつき、知的な満足感に浸るその瞬間、本当の政治は、彼と私たちの視線が届かない、さらなる深淵へと潜り込んでいく。

その空白に何があるかを知る者は、技術者である彼ですらなく、その背後に潜む「権力そのもの」だけである。



『納得感の解剖学|説得の技術者たち』
言霊(ことだま)――「発せられた言葉には、現実を動かす霊的な力が宿っている」。言葉の魔術師たちが放つ言説が感性を支配し、心地よい合意が作り上げられる。そのプロセスと様式美を分析。果たしてその『納得』は、意志か。それとも、用意された様式の帰結か。
『カオスの深層|世相・社会の解剖学』
 L『玉川徹・経済合理主義|その解剖学』


『知の深淵へ|童話・寓話の解剖学』