ジャニーズ、ナベツネ、捏造事件。正義を使い分ける実行者たちの正体
第一章:忠実なる実行者たちの記録――組織内で良心が停止する瞬間(東須磨小・自衛隊性暴力など)
事例1:2019年10月、神戸市立東須磨小学校で発生した教員間いじめ問題。
30代から40代の先輩教員4名が、20代の後輩教諭に対し、羽交い締めにして激辛カレーを目にこすりつけるなどしたほか、男性教員の車を傷つけ、無料通信アプリ「LINE(ライン)」で第三者にわいせつな文言を無理やり送らせるなどしていた。当時の前校長についても、いじめを把握しながら適切に対応しなかった。【神戸新聞NEXT】羽交い締め、目に激辛カレーわいせつLINEを強要小学校の教員4人が同僚いじめ
事例2:自衛隊内における性暴力と「口封じ」の命令
2021年8月、陸上自衛隊郡山駐屯地で男性自衛隊ら3人は女性隊員をベッドに押し付け、両脚を無理やり開き、代わる代わる何度も股間を押し付けた。
現場には他に十数名の隊員が居合わせたが、制止する者は皆無であった。また、事案発生後、現場の指揮官らによって組織的な隠蔽工作が図られていた。【日本経済新聞】元陸自隊員3人、初公判で無罪主張元自衛官性被害事件
事例3:愛知県小牧市の男性暴行死事件(弘前ドラム缶遺体遺棄事件)
2022年8月、青森県弘前市の資材置き場で、コンクリート詰めされたドラム缶の中から26歳男性の遺体が発見された。別の事件で逮捕された男の供述から、 2015年2月、愛知県小牧市の内装工事会社役員の男(当時50代)ら4人が、被害男性を車で連れ回しながら激しい暴行を加え、死亡させた。一行は犯行を隠すため、遺体をドラム缶に入れてコンクリートで固め、愛知県から青森県まで運んで放置していた。【朝日新聞】: ドラム缶に遺体、内装業の男4人逮捕20代男性を暴行死させた疑い
事例4:江別市大学生集団暴行死事件
2024年10月26日早朝、北海道江別市の公園で、千歳市の男子大学生(20)が全裸の状態で発見され、その後死亡。警察は、被害者の交際相手だった女(20)と知人の女(20)の女2人、および16〜18歳の少年4人の計6人を強盗致死などの疑いで逮捕・起訴。
者らは交際トラブルのもつれから、深夜の公園で被害者に集団で激しい暴行を加え、その最中に現金の入った財布やキャッシュカードを強奪。さらに脅して暗証番号を無理やり聞き出し、暴行後にATMから被害者の全貯金額、現金約12万7000円を引き出したほか、コンビニでタバコなどを購入していた。
第二章:権力と服従が育む「共犯関係」の構造――思考の外部委託という病
これらの事例を貫いているのは、「絶対的な権力を持つ者」と「それに唯々諾々と従う者」との間の逃れがたい力学の存在だ。
まず、組織において上位者が「指導」や「教育」という言葉を用いるとき、それは時として、実行者から個人の良心を奪う装置として機能し始める。
権力者から特定の役割を与えられた実行者は、自らの判断を停止し、権力者の「手足」となることに最適化されていく。
加害行為が「規律の維持」という大義名分のもとで行われるとき、行為の残虐性よりも「命令を完遂すること」が最優先の価値となり、個人の倫理は組織の論理に塗りつぶされていくのだ。
閉鎖的なコミュニティにおける生存戦略としての「服従」。現場を支配する上位者から「見ていないことにしろ」という指示が出る状況下では、異論を挟むことは直ちに「次の犠牲者」になることを意味する。
実行者にとって、唯々諾々と従うことは消極的な姿勢などではなく、その場を生き抜くための切実な防衛本能に変質する。
加害の側に回ることで被害の側に転落するリスクを回避しようとする際、暴力や隠蔽は、権力者への忠誠を証明するための残酷な儀式となる。
さらには、「指示されたからやった」という心理状態が、実行者に「自分は主体的ではない」という免罪符を与えてしまう点だ。
本来、人間が持つべき「自分の行動に責任を持つ」という機能を、権力者という外部へ委託してしまう。この「思考の外部委託」が、個々の罪悪感は組織全体へと希釈・霧散し、凄惨な暴力は単なる「業務」や「日常」へと変容する。
主役は直接手を下す実行者ではなく、その場を支配し「空気」を作り出した上位者であり、その上位者を絶対的な存在へと押し上げ、暴走を完結させるのは、異論を挟まずに忠実に履行を続ける実行者たちの沈黙と服従に他ならない。
この構造は、特定の組織に限った話ではなく、権力勾配が存在するあらゆる場所で、誰もが「忠実なる実行者」になり得るという冷徹な事実を私たちに突きつけている。
第三章:黙殺された告発の歴史――ジャニーズ性加害と、メディアの「死後の批判」
これまで見てきた組織内の暴力的構造は、閉鎖的なコミュニティの中だけに留まるものではない。
社会の不条理を糾弾し、真実を公表する責務を負った報道機関においても、特定の権力に対し、組織的な沈黙が維持された記録が存在する。
その象徴的な事例が、ジャニー喜多川による長年にわたる性加害への黙殺だ。
黙殺された告発の歴史
その告発の歴史は古い。既に1988年の時点で、元フォーリーブスの北公次氏が著書『光GENJIへ』において、自身の凄惨な被害体験を実名で告発していた。
かつてのトップアイドルによるこの命がけの告発は、当時35万部を超えるベストセラーとなったものの、主要メディアはこれを「芸能スキャンダル」として処理、あるいは完全に黙殺した。
また、1999年から『週刊文春』が計14回にわたり性加害を詳報し、2004年には最高裁判所において記事の主要部分が真実であると確定した際も、NHKおよび民放各局、大手新聞社はこの確定判決という「客観的事実」すらも等閑視した。【弁護士ドットコムニュース】なぜ東京高裁は「ジャニーズ性加害」を「事実」と認定できたのか1999年文春報道の裁判
「いつ沈黙を破ったか」という事実
特筆すべきは、メディアが「いつ沈黙を破ったか」という点だ。
国内の報道機関がこの問題に一斉に触れ始めたのは、2019年にジャニー喜多川が死去し、さらに2023年3月にイギリスの公共放送BBCがドキュメンタリー番組『Predator: The Secret Scandal of J-Pop』を放送してからのことである。
権力者がこの世を去り、直接的な影響力が削がれ、さらに「外圧」という大義名分を得て初めて、メディアは堰を切ったように批判を開始した。
この「死後の批判」という振る舞いこそが、彼らがいかに強固な「忖度と服従」の檻に閉じ込められていたかを雄弁に物語っている。
存命中は、ジャニーズ事務所という圧倒的な集客力を持ち、番組制作の根幹を握る「権力者」に対し、「逆らえばタレントを出演させてもらえない(=自らの利益と地位を失う)」という恐怖が勝っていた。
現場に正義感を持つ者がいたとしても、組織の上層部が「ビジネス上の合理性」という名の指導的命令を下すことで、報道の使命は「利益の維持」という役割へと塗りつぶされていた。
「マスメディアの沈黙」への断罪
ジャニーズ事務所(現SMILE-UP.)の「外部専門家による再発防止特別チーム」は、2023年8月29日に公表した調査報告書の中で、被害が長期間拡大した背景には「マスメディアの沈黙」があり、「報道を控えてきたことが、結果として被害を拡大させた」と指摘・認定した。
報道機関という社会の公器ですら、権力勾配の前では思考を停止させ、権力の源泉が枯渇するまで加害の連鎖を支え続ける装置へと変質する。
ジャニー喜多川の事例は、個人の倫理や職業規範がいかに脆く、組織的な生存戦略の前に唯々諾々と屈服しうるかを物語る、もう一つの「実行者たちの記録」である。
第四章:社会の公器を侵食する組織内権力――読売・渡辺恒雄氏が示したメディア支配の闇
読売新聞は世界最大級の発行部数を誇り、日本新聞協会の会長を歴任するなど、業界の「首領(ドン)」として君臨していた渡辺恒雄氏の事例は、メディア内部の権力がいかに「公共の電波・紙面」を歪めうるかを示す、最も巨大で象徴的な記録である。
特筆すべきは、同氏が「主筆」として、単なる経営トップに留まらず、自ら政治の「黒幕(フィクサー)」として動いていた点だ。
権力の実態を紐解く記録群
オーラルヒストリーと回顧録: 渡辺氏自身が過去の政治工作や中曽根氏との関係を語った『渡辺恒雄回顧録』御厨貴 監修伊藤隆/飯尾潤 聞き手
検証番組: NHKスペシャル『「独占告白 渡辺恒雄」〜戦後政治はこうして作られた〜』シリーズでは、自民党内の総理選出への関与などが生々しく語られている。
書籍:『独占告白 渡辺恒雄 平成編 ―日本への遺言―』(安井浩一郎著、新潮社)NHKのドキュメンタリー取材を元に追加取材を重ねた決定版。
- 組織の絶対性: 渡辺氏が学生時代の共産党活動から学んだ「細胞(組織管理術)」を組織運営に応用し、一人が百人を動かすような徹底した「命令系統」を構築していた実態が詳述されています。
- 記者の限界: 憲法改正試案の発表や政局介入など、新聞の枠を超えた渡辺氏の独断に対し、組織内の記者たちが「現場の疑問」を抱きつつも、その絶対的な権力構造に抗えなかった実態が、関係者の証言とともに赤裸々に綴られています。
2025年の追悼記事や評論(『JBpress』や『PRESIDENT Online』など)では、渡辺氏が構築した「メディアの支配者」としての側面が改めて議論された。
他社との談合的空気: 首相の靖国参拝批判において、かつての宿敵であった朝日新聞と手を組むなど、業界全体の空気を調整する「不戦条約」のような振る舞いが、メディアの監視機能を弱めたとの批判的な検証が行われている。
政界の再編や憲法改正、さらには大連立構想といった極めて政治的な意志決定に直接関与し、その方針に沿うように読売新聞の論調を制御した事実は、客観的事実を伝えるべき報道の使命を「個人の政治思想の実現」という役割にすり替えたことを意味する。
日本の大手メディア間には「他社の編集権やトップの動向を互いに批判しない」という沈黙のコード(暗黙の了解)が長年存在しており、とりわけ渡辺氏のような絶大な権力者に対しては、経営上のリスクも考慮して正面からの批判は避けられる傾向にあった。
同氏が現役で絶大な権力を握っていた数十年の間、主要なテレビ局や全国紙といった「主要メディア」が、社説や検証企画として真っ向から批判を展開した記録は、現役時代には極めて限定的であった
メディア各社は、同氏の影響力や読売新聞の圧倒的な発行部数という権威に怯え、忖度という名の「沈黙」を選択し続けた。
2025年に公開された回顧録や検証番組では、現場の記者が疑問を感じながらも、組織内の絶対的な命令系統や、他社との「不戦条約」のような業界の空気に抗えなかった実態が赤裸々に綴られている。
一人の権力者に対する唯々諾々たる服従は、結果として、日本の報道界全体から「時の権力に対する健全な監視機能」を奪う結果を招いた。
渡辺氏の死後にようやく噴出したこれらの記録は、権力者が存命である限り、報道機関という組織がいかに容易に「個人の道具」へと変質しうるかを証明している。
第五章:変質する現場の正義――「数字」と「自己保身」が生んだ番組捏造と「やらせ」
組織内部における「上位者への服従」は、現場レベルにおいては「数字(利益)への執着」や「組織防衛」という形で表出する。本来、客観的事実を伝えるべき現場が、組織の求めるストーリーや保身のために事実を歪めてきた記録は、枚挙にいとまがない。
・関西テレビの『スーパーニュースアンカー』インタビュー映像偽装
2012年11月30日放送の特集で、取材したはずの人物とは別人の映像(沖縄県在住の男性の映像)が、あたかも取材対象者であるかのように使われた。(いわゆる「」これは、報道番組における映像の捏造・偽装という重大な問題として扱われ、関西テレビはこれを受けて再発防止策を講じることになりました。 BPOはこの件を「放送倫理違反」と認定しています(委員会決定第16号)。 BPOの意見書(委員会決定第16号)の概要
・日本テレビ『月曜から夜ふかし』恣意的な編集による虚偽の内容の放送
2025年3月24日に放送された「街頭インタビュー」のコーナーにおいて、中国出身の女性へのインタビューで、実際には言っていない「中国ではカラスを食べる」という発言を、あたかも本人が話したかのように意図的に編集して放送。
現場の制作スタッフが「(元のインタビューでは)オチが弱い」と指摘されたことをきっかけに、笑いや番組の盛り上がり(オチ)を優先し、事実と異なる構成を作成。
BPOの判断: BPOは「笑いやオチを優先して不正リスクを軽視した」と厳しく批判し、客観的事実を歪めた編集は「決して許されない」と結論付けた。
・毎日放送(MBS)『ゼニガメ』自作自演疑惑
2024年7月17日放送「家屋清掃と出張買取を同時に行う業者に密着した企画」
古い家屋から見つかった「謎の金庫」の中から「金の延べ棒(金の板)」が発見される様子が紹介されたが、その実態は取材先の業者による自作自演(仕込み)だった。
金庫は、業者が撮影直前にネットオークションで落札したもの。 放送に登場した「依頼人」は業者の知人であり、対象の土地建物とも無関係の人物。金の板は業者が事前に用意し、金庫に入れて発見を装ったもの。
BPOは、本件を事実確認の欠如: 視聴者の信頼を裏切る放送の2点の理由から「放送倫理違反」と認定。
・NHK「クローズアップ現代+」やらせ疑惑
2014年5月14日放送の「追跡“出家詐欺”~狙われる宗教法人~」で、「出家詐欺」の実態を報じ、ブローカーとされる男性が多重債務者に「出家」を指南する場面を「隠し撮り」風に放送。放送後、ブローカー役として登場した男性が「記者の指示で架空の人物を演じた」と週刊誌で証言し、「やらせ」があったと告発。
NHK調査委員会は「架空の場面設定や演技させる『やらせ』はなかった」としながらも、男性を「ブローカー」と断定的に伝えたことや、相談場面をあたかも隠し撮りのように報じたことを「社内ガイドラインを逸脱した過剰な演出」と結論付けた。
NHKの対応:調査報告書を公表し、番組関係者15人を懲戒処分、役員も報酬の一部返納。特別番組で、キャスター(国谷裕子氏)が改めて視聴者に謝罪。
BPO(放送倫理・番組向上機構)の見解
NHKの調査とは異なり、ブローカーとされた男性と多重債務者男性が「10年来の知人」であり、その相談場面が「初めて会って会話しているかのように演出・放送された」ことを問題視これは「事実を著しく歪曲」しており、「重大な放送倫理違反」にあたるとの意見を公表した。
このように、「クローズアップ現代+」のやらせ問題は、NHKが「やらせ」自体は否定しつつも、過剰な演出と事実の不正確さで視聴者の信頼を損ねた事件として、放送倫理のあり方を問う象徴的な出来事となりました。
これらの事例に共通しているのは、プロデューサーやデスクといった上位者からの「視聴率が取れる画を撮ってこい」「番組を成立させろ」という、方法を問わない「結果への命令」だ。
現場のディレクターはその命令を遂行するために「演出(ヤラセ)」を唯一の解決策として選択し、組織もまた結果が出ている限りそのプロセスを問わないという「黙認の合意」が形成されていた。
第六章:正義の代行者という名の執行人 ――ダブルスタンダードの構造
自らの組織内の不都合――すなわち絶対的権力者への忖度や組織防衛のための隠蔽――には深甚なる沈黙を維持する一方で、報道機関は他者の不正や過失に対しては、一転して公権力を凌駕する「正義の代行者」として振る舞い始める。
この極端な変節と、そこに透ける「正義」への思い上がりこそが、実行者たちの真骨頂と言える。
彼らが「メディアスクラム」と称して被疑者の親族や被害者遺族の私的領域を解体する際、その盾とされるのは「知る権利」という便利な大義名分だ。
複数の刑事事件においても、拒絶の意思を示す対象にマイクを突きつけ、門扉を叩き続ける「忠実なる履行」が繰り返された。
これを主導する者たちに、個人の平穏権を侵害しているという葛藤は見られない。むしろ「社会の公器を担っている」という全能感に近い勘違いが、彼らの倫理的ブレーキを焼き切っている。
「視聴者の怒り」を大義名分とする人格否定
不祥事を起こした企業や個人の記者会見において、記者が事実確認を超えた人格否定や糾弾を行う姿が常態化している。
そこでは、以下のような「正義の代行者」としての言葉が、傲慢な響きを持って投げつけられる。
- 「あなたのその態度は、日本中の視聴者をバカにしているとは思わないんですか?」
- 「そんな言い訳で、亡くなった方の無念が晴れると本気で思っているんですか」
- 「あなたの人間としての資質を疑います。親御さんは何と仰っていますか?」
メディア側がこうした言葉を「視聴者の怒りを代弁する」という大義名分の下で発し、警察権も裁判権もないまま、対象者に「社会的死」を宣告する判事のように振る舞う危うさが見受けられる。
かつて強大な権力者の前で沈黙を選んだ時と同じ「組織の論理」が、ここでは「叩いても安全な弱者」を相手にした瞬間に、饒舌な正義へと変換されるのである。
さらに、SNSの投稿を「晒し上げ」る街頭取材や、強制捜査を先取りする演出に至っては、正義の皮を被った「娯楽の供給」に過ぎない。
・「今、どのようなお気持ちですか?」
・「周囲からは冷ややかな目で見られていますが、自業自得だという認識はありますか?」
取材班は「社会の公器」として正義を説くが、その裏では、対象者が追い詰められる過程を「娯楽性の高いコンテンツ」として消費可能な形に編集し、放送している。
対象者が追い詰められる過程を、消費可能なコンテンツとして編集・放送する。そこには、組織内で培われた「結果(視聴率)が出るならプロセスは問わない」という冷徹な計算が貫かれている。
彼らが振るう「正義の剣」は、常に権力勾配の下向きにのみ、鋭く研ぎ澄まされる。
真の強者には牙を隠し、叩いても反撃の恐れがない弱者を見つけた途端に「正義の代行者」を演じ始めるその姿は、極めてシニカルな二重構造を露呈している。
外部に向けられた苛烈な追及は、自らの沈黙と不作為に対する無意識の免罪符であり、その全能感に酔いしれることで、自らが組織の「忠実な駒」に過ぎないという卑屈な現実を、一時的に忘却しているのである。
第七章:沈黙の境界線――「激辛カレー事件」と「忖度」は本質的に同じ構造か
報道機関が「いじめ」や「不正」を語る際、そこには常に、滑稽とも言える明確な境界線が存在していることがわかる。
ジャニー喜多川氏や渡辺恒雄氏といった、業界の構造そのものを支配する圧倒的な「主役」に対して、日本の主要メディアは数十年にわたり、腫れ物に触るような沈黙を貫いた。
しかし、この長い沈黙の期間中も、各局のニュース番組やワイドショーは止まることはなかった。画面の中では連日、学校内でのいじめ自殺事件や、SNSでの誹謗中傷が「卑劣な行為」「許されざる悪」として糾弾され続けた。
自らの足元にある巨大な加害構造には触れず、安全な距離にある「悪」を叩くことで、彼らは社会正義の守護者としての地位(アリバイ)を維持してきたのである。
この振る舞いは、権力者への服従と、弱者への執行という、シニカルな二重基準を如実に示している。
メディアが「いじめは卑劣な行為だ」「傍観者も同罪だ」とキャンペーンを展開する一方で、組織内部ではスポンサーの不祥事や有力政治家のスキャンダルを「忖度」という名の沈黙で見過ごす。
構造の一致:激辛カレーと忖度の沈黙
これは、命令に従い羽交い締めにして激辛カレーを目に塗りつけた「忠実な実行者」たちと、その性質において何が違うのだろうか。
彼らが自らの地位を守るために個人の倫理を停止させた構造と、メディア人が「ビジネス上の合理性」という名の命令に従い、報道の使命を停止させた構造は、驚くほど一致する。
違いがあるとすれば、カレーを塗る行為は一目で「悪」とわかるが、「報じない」という不作為は、一見すると無害に見えるという点だけだ。
マスコミが学校のいじめ加害者を追及する際、彼らは警察権も裁判権もないまま、対象者の卒業文集や過去の言動を掘り起こし、社会から抹殺する勢いで指弾する。
しかし、自らが「知っていながら報じなかった」ことで拡大した被害(ジャニーズ問題等)については、他者から指摘されるまで、自浄作用を発揮することはなかった。
ここに、「沈黙の境界線」が明確に引かれている。
その境界線は「正義」や「倫理」ではなく、常に「安全か、危険か」という、自己保身の論理によって定められているのだ。
第八章:反撃してこない弱者へ向けられる「正義」の石
報道機関が「いじめ」や「不正」を語る際、そこには常に、滑稽とも言える明確な境界線が存在している。
地位を守るために個人の良心を停止させた「共犯者」たちの卑屈な生存戦略。
そして、視聴率のために事実を加工し、不都合には蓋をする現場の「自己保身」。
これらメディアの内実に潜む構造は、「3人の男たちは、たった1人の女性をベッドに押し付け、両脚を無理やり開き、代わる代わる何度も股間を押し付けた実行者」たちの心理と、その本質において何ら変わりはない。
しかし、彼らがひとたび「安全な距離」にある他者の不正を見つけた途端、その姿は一変する。
自らの足元にある巨大な加害構造には沈黙を貫きながら、叩いても反撃してこない弱者に対しては、汚れなき聖職者のような顔で「傍観者も同罪だ」と断罪してみせる。
この二面性こそが、現代のメディアが抱える病理の正体だ。自らの「沈黙の境界線」の向こう側で起きている惨劇には目をつぶり、安全圏から石を投げる時だけは、この世の正義を一身に背負った執行人へと豹変する。
これほど見事な「正義」の使い分けを平然と演じ切る彼らの姿を眺めていると、かつてネット上の掲示板で語られていた、ある「逸話」を思い出した。
「イエスが街を歩いていたら、民衆がある女に石を投げていた。
イエスは言った。『おまえたちの中で、一度も罪を犯したことのない者だけが、この女に石を投げなさい』。それを聞いた民衆は、一人、また一人と去っていった。
……最後に、石を投げていたのはイエスひとりであった」

L『納得感の解剖学|説得の技術者たち』
『知の深淵へ|童話・寓話の解剖学』

