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第3回:【中世ヨーロッパ②】封じられた都市

中世フランスの王族ベリー公ジャン1世の豪華な新年の晩餐会を描いた、パブリックドメインの装飾写本。ランブール兄弟による細密画で、当時の貴族の華やかな服装や、船の形をした金細工の塩入れ「ネフ」、トレンチャーと呼ばれる皿代わりのパンなどが並ぶ食卓の様子が詳細に描写されている 歴史・文化
ランブール兄弟作『ベリー公のいとも豪華なる時祷書(1月)』、1412年–1416年頃、羊皮紙に彩色(パブリックドメイン)
歴史・文化
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汚物と秩序の崩壊

序文:

ローマの都市には、秩序があった。身体の排泄は公共の場で行われ、汚物は神の名のもとに流されていた。だが中世ヨーロッパでは、その秩序が音を立てて崩れていく。

汚物は窓から投げ捨てられ、床の下には腐敗が積もり、羞恥心は権力の演出へと変わり、寄生虫は聖なる同居人となった。清潔とは、もはや「実体」ではなく、見えなければよいという『演出』へと変貌していく。

この回では、都市の崩壊と清潔の視覚的記号化をたどっていく。「誰のものでもない空間」が生み出す無関心と、「私の部屋」だけを守るために外部を汚染し尽くす論理。そこに、現代にも通じる”清潔の幻想”の原型が見えてくる。

セクション1:公共空間の消滅 ― 窓外投棄(Gardyloo!)の無関心

中世の都市では、空がトイレだった。

とりわけエジンバラでは、上階の窓からおまるの中身が投げ捨てられ、通行人は「Gardyloo!」(フランス語の gardez l’eau「水に気をつけろ」が訛ったもの)という叫び声を聞くたびに、頭上から降ってくる”それ”を避けて走った。この慣行は記録上1622年頃から確認されており、1749年には「ナスティネス法」が制定されるほど深刻な問題だった。英語で今もトイレを「loo(ルー)」と呼ぶのは、この叫び声に由来するという説がある。

ローマ時代、排泄は公共の秩序の一部だった。公衆トイレが整備され、下水道が都市の浄化を担っていた。だが中世では、公共空間は「誰のものでもない場所」へと変質していた。

自分の部屋(私域)から汚物を追い出せば、その先がどうなろうと関心はない。そこには、「全体の秩序」よりも「個の聖域」を優先する倫理があった。こうして都市は、秩序の共有を失い、無関心の堆積場と化していった。清潔とは、もはや「都市全体の状態」ではなく、自分の部屋の中だけが清ければよいという、”内と外の分断”の始まりだった。

セクション2:床の地獄 ― 葦(ラッシュ)の下の腐敗

中世の屋敷では、床は「見えない地層」だった。石造りや土間の床の上には、寒さをしのぐために葦(ラッシュ)や藁が敷かれ、その上にはハーブや花びらが撒かれた。見た目には香り高く、柔らかな空間――だが、その下には年単位で積もった腐敗が眠っていた。

食べ残し、痰、尿、犬の糞、吐瀉物。それらは葦の下に沈み、視界から消えた瞬間に「存在しないもの」として扱われた。

人文主義者エラスムスは、1515年頃の手紙でイングランドの家々についてこう描写する。「床は一般に粘土が敷かれ、葦が撒かれているが、更新はまれで、底の層は20年も放置される。その下にはビールのこぼれ、脂、食べかす、骨、唾、その他言うも憚られる汚物が堆積している。天気が変わるたびに、腐敗したガスが噴き出す」と。

ここにあるのは、「見えなければ清潔」という思想の原型だ。汚れを取り除くのではなく、覆い隠し、香りで上書きする。それは、視覚と嗅覚を操作することで、現実を”演出”する技法でもあった。

セクション3:羞恥心の消失と排泄の演出

ローマでは、排泄は公共の中にあったが、羞恥心と秩序の中で共有されていた。だが中世ヨーロッパでは、羞恥心そのものが別の意味で消失していく。

宮廷に近い一部の上流貴族たちの間では、客人と談笑しながら、部屋の隅に置かれた「おまる(クローズ・スツール)」に腰を下ろすことも珍しくなかった。会話を止めることなく用を足すことが、権力者の”日常”として成立していたのだ。そこには、「見られることは恥ではなく、権力の証」という倒錯した論理があった。高貴な身分とは、「自らの生理現象を他人に処理させる権利」を持つこと。排泄は、傅(かしず)く者の存在を可視化する”儀式”でもあったのだ。

こうして羞恥心は、「隠すべきもの」から「誇示すべきもの」へと反転していく。清潔とは、もはや「身体の状態」ではなく、誰がそれを処理するか、誰の前で行うかという、社会的な階層と演出の問題へと変わっていった。

セクション4:聖なる寄生虫 ― 肉体という「神の家畜飼育場」

1170年12月29日、カンタベリー大司教トマス・ベケットが聖堂内で暗殺されたとき、彼の遺体を清めようとした修道士たちは、驚くべき光景を目にした。

豪華な大司教の法衣の下に、粗い山羊の毛でできたヘアシャツ(苦行用の下着)を着込んでいたのだ。そのヘアシャツは、無数のシラミ、ノミ、ウジ虫が湧き出すほど虫に満ちていた。当時の証言によれば、虫は「煮え立つ鍋の水のように」溢れ出たという。

だが、修道士たちはそれを「不潔」とは受け取らなかった。むしろ、これほど多くの虫を長年にわたって養い続けた彼の忍耐と苦行に、深く感動したという。

こうした苦行は、ベケットだけの特例ではなかった。13世紀の隠者ラウレンティウスは「シラミだらけの鎖かたびら」を肌に身につけ、ハンガリーの聖マルガリータはシラミに悩まされるために髪を洗うことを拒んだ。中世の聖職者たちにとって、寄生虫は「駆除すべき害虫」ではなく、肉体を通じた魂の修錬に欠かせない同伴者だったのだ。

また医学的見地からも、当時の体液理論(フモラリズム)において、シラミやウジ虫は体内の生命力ある体液から自然発生するものと考えられていた。虫がつくことは、生命力の証であり、虫のつかない死体との対比で語られた。

セクション5:尿の錬金術 ― 白いシャツを支える「腐敗した水」

中世の貴族たちは、肌を洗わなかった。だが、白いリネンのシャツの襟元だけは、いつも輝くように清潔だった。

その白さを支えていたのは、発酵した尿(チェンバー・ライ)だった。洗濯女(ランドレス)や布地職人(フラー)たちは、数週間放置してアンモニア濃度を高めた尿を大樽に溜め、そこにリネンを漬け込み、棒で突き、あるいは足で踏み込んで汚れを落とした。この手法はローマ時代から続き、中世・近世を通じて広く行われた。

リネンは、皮脂や汗、垢を吸い取る「清浄の代行者」として機能した。だがその代償として、作業者の腕は強アルカリに焼かれ、皮膚がただれ、常に赤く腫れ上がっていた。

それでも貴族たちは、その白さを「清潔の証」として誇った。だが実際には、作業中にはアンモニアの刺激臭が漂っていたという。こうして中世の清潔は、不潔な肉体を、化学的に漂白された布で包み隠す演出へと変わっていったのだ。

【補足】尿による漂白・洗濯は「グレートウォッシュ(大洗濯)」と呼ばれる定期的な大洗いの一環として行われることが多かった。また、この慣行は厳密には「中世」に限らず、近代に石鹸が普及するまで(19世紀頃まで)各地で継続していた。

結び

中世ヨーロッパにおいて、清潔とは「取り除くこと」ではなかった。それは、見えない場所に押し込め、覆い隠し、香りで上書きすることだった。

汚物は窓から投げ捨てられ、床の下に沈殿し、羞恥は権力の演出へと変わった。寄生虫は聖性の証とされ、白いシャツは腐敗した尿で漂白された。こうして都市は、秩序を失いながらも、清潔を”演出”する技術だけを洗練させていった。

それは、「視界から消えたものは存在しない」という、現代にも通じる”清潔の幻想”の原型だったのかもしれない。

次回、私たちは中世の闇を抜け、近代という光の時代へと足を踏み入れる。だがその光は、果たして本当に「清潔」だったのだろうか。水が再び都市に戻ってきたとき、何が洗われ、何が見えなくなったのか。その問いを胸に、次の扉を開けてみよう。

▶目次〈清潔という幻想〉:トイレから見た世界の秩序と信仰