誠実の純化(共に悩むという檻)
第一章 「良心」という名のキャスター像
フェイクニュースや極論が飛び交う言論空間において、視聴者が最後の安息地として求めるのが、大越健介氏の放つ「抑制された言葉」だ。
彼の説得力の背景には、日本のエリートの正道を歩んできたキャリアがある。
東京大学文学部を卒業後、NHKで政治部記者やワシントン支局長を歴任。『ニュースウォッチ9』のキャスターを務め、テレビ朝日の『報道ステーション』へと戦場を移した今も、公共放送で培ったジャーナリズムの矜持を携え、その立ち振る舞いには揺るぎない「正統性」が宿っている。
さらに東大野球部のエースとして神宮のマウンドに立ったという「文武両道」の物語が、彼の言葉に独特の説得力を与えている。
この「東大卒のエース」という圧倒的な陽のオーラが、彼の「良識」に人間的な厚みを与える。
彼は激しく糾弾することは少ない。むしろ、画面越しに視聴者と同じように悩み、考え込むような表情を見せる。
その「抑制された誠実さ」という肖像は、攻撃的な言論に疲弊した人々にとって、最も信頼に値する羅針盤のように映るのである。
第二章 「問い」による結論の先送り
大越氏が駆使する第一の技術は、複雑なニュースの結論を急がず、あえて「私たちはこれをどう考えるべきでしょうか」という「問い」の形に純化させる技術だ。
池上氏が「正解」を与え、ひろゆき氏が「論理」で断じるのに対し、大越氏はあえて「余白」を残してみせる。
本来、報道とは徹底した事実の伝達であるはずだが、彼はそこに「情緒的な解釈」を静かに、しかし鮮やかに差し込むのである。
複雑な政治情勢や悲劇的な国際紛争を、組織の構造や歴史の力学としてではなく、個人の良心や道徳の問題へと純化させる。それによって、視聴者の心に直接語りかけるのだ。
これは明確な結論の提示ではない。視聴者を「共に悩む当事者」として巻き込む技術である。
視聴者は、大越氏と一緒に悩んでいるというその共感的な体験そのものに満足し、彼が番組の最後に添える「希望を捨ててはいけません」といった抽象的な総括を、あたかも深い真理であるかのように受け入れてしまうのである。
第三章 「東大エース」が引く良識の境界線
大越氏の説得を支えるもう一つの柱は、自らを「良識ある市民の代表」に置くことで作り出す、静かな対立の構図である。
彼は特定の政治勢力や人物を「敵」として激しく叩くことは控える。
その代わりに、不条理な社会現実や無慈悲な構造そのものを「嘆くべき対象」として設定するのだ。
ここで彼が引く境界線は、剥き出しの敵意ではなく、「良識を持って共に悲しむ私たち」と、「それを踏みにじる不条理な世界」という対比である。
この構図の中にいる限り、視聴者は「自分は正しい感性を持っている」という道徳的な優越感を得ることができる。
第四章 「共感」という名の静かな熱狂
大越氏の語り口は、常に平熱で丁寧だ。しかし、その底流には、視聴者の「善意」や「正義感」を静かに増幅させる高度な演出が組み込まれている。
多用されるのは、「胸が痛みます」「立ち止まって考える必要があります」といった、視聴者の情緒に直接訴えかけるフレーズだ。
人間には、凄惨な事件や悲劇に直面した際、「正しく心を痛めている自分」を確認することで、自らの人間性を再保証したいという欲求がある。
大越氏は、NHK時代の記者経験やワシントン特派員として培った「語りの技術」を駆使し、その根源的な同情心を的確に刺激するのだ。
一度この「共感の磁場」に引き込まれた視聴者は、情報の客観的な分析よりも、彼と共に抱く「やりきれなさ」という感情の共有を優先し始める。
理性がニュースの裏側や構造的背景を精査する前に、感情が「この誠実な人の言葉を信じたい」という指令を下す。その瞬間、報道は客観的な事実の伝達から、視聴者の良心を慰撫するための「物語」へと変質するのである。
第五章 「共に悩む」という安心感
大越健介という技術者は、極論やフェイクニュースに疲弊した現代人の心に対し、最も優しい「知的な鎮静剤」を投与しているのである。
池上彰氏が明快な答えを提示する「教師」であるならば、大越氏は「共に苦悩してくれる信頼すべき先輩」だ。
私たちは、正解のない現代社会の重圧を前にして、「この人と一緒に悩んでいれば、少なくとも正解の軌道から大きく外れることはないだろう」という、極めて日本的な集団心理に基づいた逃げ道を求めている。
彼の見せる溜息や沈黙は、迷える視聴者にとっての「避難所」として機能しているのだ。
彼を「報道の良心」として祭り上げたのは、自ら決断し、その責任を負うことから逃れたいと願う、私たち自身の他力本願な心理である。
そして、その根底にあるのは、自分たちもまた「健全な側」でありたいという、切実なまでの憧れに他ならない。
第六章 その「正解」は、誰のものか
彼が振るった技術の核心は、報道を「事実」の伝達から「道徳」の領域へと引き上げ、視聴者を「共に悩む仲間」として取り込む点にある。
池上氏が「教養」で、成田氏が「虚無」で、玉川氏が「不信」によって、人々の思考を停止させた。そして彼は、「誠実さ(良心)」という静かな力によって、思考を停止させたのである。
私たちは、彼の抑制された言葉を浴びることで、複雑な世界に対し「正しい姿勢」で向き合えているかのような錯覚に陥る。
しかし、どれほど「共に悩んだ」ところで、そこにあるのは、安全な茶の間から不条理な現実を眺め、心を痛めているという道徳的な満足感だけだ。
自ら現場に足を運び、泥臭い解決策を探る。かつて東大野球部という勝負の世界で培ったはずの「行動」という最も重要な要素を、私たちは「共に悩む」という名の思考停止に置き換えてしまっている。
画面の中で彼が「立ち止まって考える必要があります」と呟くとき。その言葉によって、いかなる「個の行動」が先送りされているのか。
そこにあるのは、誠実さに包まれた美しい報道という名の檻と、それを「真実」として供給し続ける技術者の、巧妙な計算式だけである。

L『玉川徹・経済合理主義|その解剖学』
『知の深淵へ|童話・寓話の解剖学』

