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第2話:特権階級の「写生」と白樺派の熱狂

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第2話:特権階級の「写生」と白樺派の熱狂
文学・文壇
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志賀直哉の文体は「簡潔」「正確」「一字も動かせない」と語られるが、その背後には、ほとんど誰も触れたがらない事実がある。 ――彼は生涯、一度も経済的困窮を経験していない。

旧家に生まれ、父との対立を抱えながらも資金援助は途切れず、父と断絶した後は祖父・直道も志賀を支えた。最終的には莫大な遺産を相続した。 本記事では、志賀直哉の創作を支えた「経済的聖域」が、どのように彼の文体と文学的権威を形づくったのかを掘り下げる。

1.  出自と教育環境——学習院・東大へと続く「旧家と実業家」の血筋

1883年、志賀直哉は宮城県石巻に生まれた。 祖父・直道は旧相馬中村藩の家老、父・直温は総武鉄道や帝国生命保険の創立に関わった実業家である。 幼少期から東京・山手御殿山の邸宅で育ち、皇族・華族が通う学習院を経て東京帝国大学へ進学した。

この出自は、志賀の「正しさ」への執着と、後の“清潔な文体”の背景を形づくる。

2. 生活の不安がない『白樺』創刊期——自活を必要としない“異質な存在”

1910年、武者小路実篤らと雑誌『白樺』を創刊。 自然主義に対抗し、自己の感覚を肯定する文学を掲げた。

しかしこの時期、志賀には自活の必要がなく、生活のすべては実家の支援によって成り立っていた。 白樺派の仲間が職を持ち、原稿料で生活を支える中で、志賀だけが“生活の不安”から完全に切り離されていた。

この差は、白樺派内部で志賀が“異質な存在”として扱われる一因となった。

3. 父を憎み、父の金で暮らす矛盾——転居費用を支え続けた「仕送り」の実態

志賀の代表的な私小説群は、父・直温との対立期に多く書かれている。 結婚問題などを巡って十数年にわたり不和が続いたが、その間も尾道、我孫子、京都などへ転居を重ねるための費用は、すべて父からの仕送りで賄われていた。

父を憎みながら、父の金で生活するという矛盾は、志賀の私小説に独特の緊張をもたらした。 さらに、父との断絶後は祖父・直道が志賀を支援したと記録されている。

志賀は家から逃れようとして、家に支えられ続けた。

4. 20年の執筆を支えた莫大な遺産——長編『暗夜行路』完結の物理的条件

1917年、この葛藤は『和解』として結実する。執筆期間はわずか15日間だった。 和解後、志賀の経済的基盤はさらに強固となり、1921年に着手し1937年に完成した唯一の長編『暗夜行路』は、約20年をかけて書き上げられた。

この20年には、何度も“書けなくなる”時期があった。 志賀は納得がいかなければ筆を止め、数年単位で沈黙した。

この沈黙を可能にしたのが、1929年の父の死去に伴う莫大な遺産の相続である。


5. 奈良・高畑サロンの贅——数行の推敲に数ヶ月を費やせる「経済的聖域」

相続後、志賀は奈良・高畑に大規模な自邸を建て、「高畑サロン」と呼ばれる文化的拠点を形成した。 原稿料に頼る必要がなく、数行の表現に数ヶ月を費やす創作環境が生涯維持されたのである。

志賀の“沈黙”は、単なる精神的な葛藤の結果ではなく、恵まれた生活条件によって許容された沈黙であった。

6. 経済的聖域が文体を形づくった

志賀の文体は、過剰な叙述を排した簡潔な描写が特徴である。 家父長制との葛藤や自己の内面を突き放して観察する視点は、「心境小説」の極致と評された。

88歳で没するまで一度も定職に就かず、経済的困窮とも無縁だったという事実は、推敲を極限まで重ね、寡作を貫くという文学的権威を支える物理的条件となった。

志賀直哉の“完璧な文体”は、精神の純粋な産物であると同時に、「家の資産」が生み出した構造でもあった。