1. 極論の裏側にある矛盾――一度も習得しなかった言語に求めた「救い」
志賀直哉が戦後に提唱した「フランス語国語化」は、現実の政策として採用されることはなかった。しかし、この極論の裏側には、戦後の価値観の激変に取り残されていく“神様”の焦燥と、表現者としての限界が静かに横たわっていた。
この主張には冷厳な事実がある。志賀は東京帝国大学でフランス語を履修していたものの、以下の実態があった。
- 生涯を通じて読み書きを習得した記録はない
- 日常会話で使用した事実も確認されていない
つまり志賀は、一度も自らの手に馴染んだことのない言語に、敗戦後の国民精神をリセットする「奇跡」を求めたに過ぎなかった。この提言は、志賀が晩年に抱えた「日本語への深い不信」の最終形であった。
2. 父への回帰と権威の影――憎んだはずの「家父長的構造」への同化
戦後、志賀は熱海や奈良に居を構え、1949年には文化勲章を受章。文壇の最高権威としての地位を保ち続けた。しかしその姿は、かつて志賀が最も憎んだ父・直温の姿と重なっていく。
- 若い作家の作品を「不潔」「嫌な感じ」と切り捨てる冷徹さ
- 文体の“正解”を独占し、弟子たちを従わせる家父長的な構造
- 自らの美意識を絶対視し、異端を排除する姿勢
これらは、志賀が青年期に激しく反発した父の姿そのものだった。志賀は父を否定することで父を超え、父を超えたことで、父になってしまった。この逆説こそ、志賀直哉という人物の宿命であった。
3. 創作の衰退と完璧の呪縛――「一字も動かせない」文体が招いた沈黙
1945年から1971年に没するまでの26年間、志賀の創作は目に見えて衰えていく。
- 発表された作品の多くは短い随筆や回想録
- 1960年代以降は、数年に一度、日記的な断片を綴るのみ
- 『暗夜行路』のような長編は二度と生まれなかった
「一字も動かせない」完璧さを自らに課した志賀は、その完璧さゆえに、もはや筆を進めることができなくなっていた。日本語を極め、その言語そのものを否定しようとした男は、やがて長い沈黙の季節へと入っていく。
4. 1971年の終焉――「もう、いいよ」という言葉に込められた解放
1971年10月21日、志賀直哉は肺炎と老衰のため、88歳で生涯を閉じた。死の間際、意識が混濁する中で、志賀は「もう、いいよ」と何度も繰り返していたという。
その言葉は、完璧を求め続けた疲労、“神様”という虚像を演じ続けた重圧、そして何より、父という呪縛からの解放――そのすべてが溶け合った、静かな降伏だったのかもしれない。
父を憎んだ息子が、父以上の“父”として生き抜き、その役割からようやく解放される瞬間。それが、志賀直哉の最期であった。
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