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第4回:【ベルサイユ①】排泄と香水

19世紀に描かれたパブリックドメインの図版。フランスのヴェルサイユ庭園にある「ラトナの噴水」周辺で、当時の正装をした人々が散策やボートを楽しむ様子を描いた、シャルル・リヴィエールによる歴史的なパノラマ画 サイト案内
シャルル・リヴィエール作『ヴェルサイユ宮殿と庭園のパノラマ』、1860年頃、リトグラフ(パブリックドメイン)
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黄金の腐敗と嗅覚の暴力


序文

ベルサイユ宮殿。現代人はそこに「優雅」「清潔」「高貴」といったイメージを重ねる。だが、当時の現実はかなり異なっていた。

宮殿にはトイレが存在したものの、数千人の貴族と使用人が生活するには絶対的に不足しており、廊下の隅や階段の裏での排泄が記録されている。夏にはアンモニアと腐敗臭が宮殿を包んだ。

それでも彼らは、香水をふりかけ、ハイヒールで汚泥を避け、粉と脂で肌を密封し、それを「優雅」と呼んだ。

この回では、腐敗を清潔に見せかけるための嗅覚・視覚・触覚の演出を、史実と一次資料をもとに描いていく。清潔とは、洗うことではなく、腐敗を上書きし、他者に押しつける技術だった。それが、ベルサイユという「黄金の宮殿」の一側面だったのである。

セクション1:排泄の問題 ― トイレ不足の宮殿

ベルサイユ宮殿には、トイレが「なかった」わけではない。ルイ14世は王族専用の個室便所(cabinet d’aisance)を整備し、階段下などに一般向けの公衆便所も設置させた。ルイ16世の時代には水洗トイレも導入されている。

しかし問題は、絶対的な数の不足だった。数千人が居住・訪問する宮殿に対して、トイレの数はあまりに少なかった。公衆便所が閉鎖されたり定員を超えると、廊下の隅や暗がりで用を足す者が絶えなかった。

1702年、王弟妃リーゼロッテは書簡にこう記している。「ギャラリー前の廊下では、人々が四隅に小用を足しており、自室を出るたびに誰かが用を足しているのを見かける」。また18世紀の証言者は宮殿について「通路、廊下、中庭は尿と糞便で満ち……」と描写している。

悪臭は深刻な問題となり、ルイ14世は週1回廊下を清掃させる規則を設けた。また悪臭を和らげようと、宮殿内に芳香を放つオレンジの木を鉢ごと配置した。ベルサイユは清潔な宮殿ではなく、衛生問題と格闘し続けた宮殿だったのだ。

セクション2:嗅覚の軍拡競争 ― 香水による空間制圧

ベルサイユでは、「消臭」よりも「制臭」が行われた。ルイ14世は自室に毎日異なる香水を用意させ、家具にも香水が吹きかけられ、宮殿を訪れる者は入口で香水を浴びせられた。ルイ14世の治世に「最も香り高い王」という評が生まれ、ルイ15世の時代には「la cour parfumée(香水の宮廷)」と呼ばれるほどになった。

当時の香料は主に動物系(ムスク、アンバーグリス)の濃厚な成分を使用していた。ただし17世紀末から18世紀にかけて、こうした重い動物系香料から軽やかな花・草・木の香りへと次第に移行していった。

香水は清潔のためではなく、腐敗臭と排泄物の臭いをねじ伏せるためだった。それは、感覚を麻痺させるほどの濃密な権威の匂い。香水は、腐敗を隠すための武器でもあったのだ。

清潔とは、もはや「無臭」ではない。より高価で強烈な香りを纏い、他者の嗅覚を支配すること。嗅覚の競争こそが、ベルサイユの清潔の一側面だった。

セクション3:地面という名の地獄 ― ハイヒールとマント

ベルサイユの外部空間は、腐敗の沼だった。馬の糞、人間の排泄物、台所の残飯が混ざり合い、雨が降ればそれは泥となり、晴れれば粉塵となって舞い上がった。

そんな地獄の上を歩くために、貴族たちはハイヒールを履いた。ルイ14世が愛用した赤いヒールは、装飾ではなく「高床」だった。豪奢な衣装の裾を汚物に浸さぬよう、物理的に地面から距離を取るための装置でもあったのだ。

さらに、ドレスのクリノリンやマントの広がりは、屋外で人目を避けて用を足す際に身体を隠す機能を果たしていた。ファッションは、排泄と腐敗から身を守る移動式の防御壁でもあった。

清潔とは、洗うことではない。それは、不潔に触れないこと、距離を保つこと。ハイヒールとマントは、腐敗の上に君臨するための装備だったのである。

セクション4:洗わぬ皮膚の防衛線 ― 粉と皮脂の密閉

ベルサイユでは、「洗うこと」が恐れられていた。当時の医学では、水が毛穴を開いて病気を招くと信じられており、太陽王ルイ14世も入浴はごく稀だったとされる。浴槽が用意されていたにもかかわらず、実際の入浴回数は生涯で数回という伝承も残る(史料によって2回・3回と異なる)。

その代わりに行われたのが、粉と脂による乾燥洗浄だった。髪にはポマード(動物性脂)を塗り、その上から小麦粉や澱粉を振りかける。肌には白粉を厚く塗り重ね、生身の皮膚を誰の目にも触れさせない。

この層は数日から数週間にわたって更新されず、汗と粉と脂が混ざり合い、粘土のような塊となって皮膚を覆った。皮膚を密封することで病から守るという、物理的な信仰だった。

清潔とは、洗い流すことではない。それは、皮膚を密閉し、空気や水と隔絶すること。肌は露出すべきではないものであり、粉と脂の層こそが命を守る第二の皮膚だったのだ。

結び

ベルサイユにおいて、清潔とは「洗うこと」ではなかった。それは、腐敗を香りで上書きし、汚物から距離を取り、皮膚を密封することだった。

宮殿のトイレは数が圧倒的に不足しており廊下での排泄が記録され、香水は腐臭をねじ伏せるための武器となり、ハイヒールとマントは汚物の海に浮かぶ防御装置となった。

そして、洗わぬ皮膚は粉と脂で密封され、感覚を麻痺させる香りの中に貴族たちは生きた。

こうしてベルサイユは、腐敗を清潔に見せかけるための演出装置となった。それは、感覚を麻痺させ、現実を覆い隠す「黄金の幻想」だったのだ。 次回、私たちはこの幻想の裏側――触覚と視覚の欺瞞、そして不可視の労働と犠牲に目を向ける。清潔とは誰の手によって支えられていたのか。その問いが、ベルサイユのもう一つの顔を照らし出すだろう

▶目次〈清潔という幻想〉:トイレから見た世界の秩序と信仰