–死刑停止と穢れの制度
はじめに——女流作家たちが描いた「死なない都」
春はあけぼの。
やうやう白くなりゆく山ぎは、少しあかりて…
——清少納言『枕草子』
もの思へば 沢の蛍も わが身より あくがれいづる 魂かとぞ見る ——和泉式部『後拾遺和歌集』
いとどしう思ひしみて、涙のこぼるるを、いかが思ひけむ
——和泉式部日記
いとどしうもの思ひまさりて、いとど涙のとどまらず
——『更級日記』
平安の女流作家たちは、死を語らなかったわけではない。けれども彼女たちの言葉に現れる死は、あくまで「別離」としての死であり、魂の漂いとしての死であり、あるいは恋の終わりに重ねられる象徴としての死であった。
そこに血はなく、腐臭もなく、死体の重さもない。
死は、涙とともに詠まれ、香の煙とともに昇華される。
しかし、同じ時代、同じ都の地面には、別の死があった。
帳簿に記されず、儀礼にも昇華されず、ただ「処理」される死。
それは、制度の外で、静かに、確実に遂行されていた。
第一節:死刑の停止と穢れの思想
810年(弘仁元年)、嵯峨天皇は「死刑の執行を停止する」詔を出した。
『日本後紀』によれば、この詔は「死刑を行うことは天意に背く」とし、以後、死刑に相当する罪人にも流罪や禁錮などの代替刑が適用されるようになる。
以後、1156年の保元の乱まで、約350年にわたり、律令制のもとで定められた死刑は、原則として行われなかったとされる。
この事実はしばしば「人道的な進歩」として語られる。
だが、実際には死は消えてなどいなかった。
ただ、見えなくされていただけである。
これは人道的な理念によるものではなく、「死」を穢れとみなす宗教的・呪術的な思想に基づく。
死を忌避することで、都の清浄を保つという目的があった。
第二節:死=穢れ」という空間的恐怖
仏教の不殺生戒の影響も指摘されるが、それ以上に大きな要因は「死=穢れ」という観念である。
死は、個人の終わりではなく、社会的・空間的な汚染とみなされた。
とくに都においては、死体の存在は迅速に排除されるべきものとされた。
たとえば『延喜式』には、
死者を扱う者(殯宮使・殯官:ひんきゅうし・ひんかん)
や、死体を運ぶ者(殯舎人:ひんとねり)
に対して、一定期間の「物忌(ものいみ)」を課す規定がある。
死に触れた者は社会的に「穢れた存在」とされ、一定期間、他者との接触を禁じられた。
このような観念のもと、死刑の執行は都の中で行うにはあまりに危険な行為とされた。
死刑の停止は、慈悲の表現ではなく、むしろ都の清浄を守るための呪術的・空間的な措置だった。
死を遠ざけ、見えなくすることで、都の「雅」を保つ。それが、制度の本質だった。
第三節:流刑という名の死刑
代わって用いられたのが「流刑」である。罪
人を遠国へと追放するこの刑罰は、表向きは生存を許す寛大な処置とされたが、実態は「死に等しい」処断だった。
伊豆、隠岐、土佐、安芸、壱岐、対馬——
いずれも都から遠く離れ、交通も物資も乏しい地である。
護送中の病死、現地での衰弱死は日常であり、流刑は「帳簿に記されない死刑」として機能していた。
たとえば、承和元年(834年)、藤原吉野は謀反の嫌疑で隠岐に流され、数年後に病死。
天慶3年(940年)、平将門の乱に連座した者たちも、遠国への流刑を命じられたが、その多くは現地で消息を絶っている。
記録に残るのは「配流」の事実のみであり、その後の生死は、制度の外に放り出された。
第四節:陰陽道と方角の呪術的意味
流刑には、もう一つの側面がある。
それは「空間による呪術的処断」である。
陰陽道において、特定の方角や地形は霊的な意味を持つ。
鬼門(北東)や裏鬼門(南西)といった方角は災厄の出入り口とされ、そこへ穢れを流すことで、都の清浄を保つとされた。
流刑地の多くが、こうした「忌避の方角」に配置されていたのは偶然ではない。
また、流刑は単なる地理的移動ではなく、儀礼的な意味を帯びていた。
罪人は、都を出る際に「送別の儀」を受け、穢れを背負った存在として扱われた。ある種の「祓い」の儀式であり、都に残る者たちにとっては、穢れを外へ送り出すことで秩序を回復する行為だった。
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