平安時代において、子どもの命は制度的に軽視されていた。特に乳幼児に対する社会的保護はほとんど存在せず、死亡は日常的な現象として受け入れられていた。
『延喜式』や『類聚三代格』には、乳児の死亡に関する記録はほとんど見られず、制度的には「死ななかった」かのように扱われている。
第一節:棄てられる命——棄児と乳幼児死亡の制度的黙認
背景には、「七歳までは神のうち」という観念がある。
これは、七歳未満の子どもはまだ人格を持たず、死んでも「人間の死」としては数えられないという宗教的・民俗的な認識に基づく。こ
のため、乳幼児の死は「穢れ」としても扱われず、葬送の儀礼も簡略化されるか、あるいは省略された。
棄児の存在は、説話集や日記に頻出する。
『今昔物語集』には、貧困や不義の子を理由に、子どもを道端や川辺に遺棄する話が複数見られる。
これらの行為は、法的には禁じられていたが、実際には黙認されていた。
『政事要略』や『本朝世紀』にも、棄児に関する摘発や処罰の記録は極めて少なく、制度的無関心が常態化していたことがうかがえる。
また、乳幼児の死亡率は極めて高かったと推定される。
疫病、栄養失調、事故、育児放棄などが重なり、2歳までに半数が死亡したとする推計もある(『日本人口史資料集成』所収の古代戸籍分析による)。
だが、これらの死は、制度的には「不可避の自然死」として処理され、社会的な対策は講じられなかった。
第二節:依り代としての子——呪術的機能と人格の剥奪
平安時代において、子どもはしばしば「依り代(よりしろ)」として扱われた。
依り代とは、神霊や物の怪が憑依する器であり、宗教的儀礼や祈祷の場において重要な役割を果たす存在である。
だがその役割は、子どもを「人間」ではなく「媒体」として扱うことを意味し、人格の否定と密接に結びついていた。
『日本霊異記』や『今昔物語集』には、病人の祈祷に際して、童子に神霊を降ろす場面が繰り返し登場する。
たとえば、ある病人の病因を探るため、童女に神霊を憑依させ、病の由来を語らせるという話がある(『今昔物語集』巻20)。
このとき、童女は「神の口」として扱われ、発言の内容がそのまま神託とされた。
こうした儀礼において、子どもは「純粋であるがゆえに、神や物の怪が宿りやすい」とされ、選ばれやすかった。
だがその一方で、憑依の過程で心身に異常をきたすことも多く、祈祷後に衰弱死した例も記録されている。
これらの死は、神意の結果として受け入れられ、制度的な責任追及はなされなかった。
また、呪詛や祓いの儀礼においても、子どもが「身代わり」として用いられる例がある。
『古事談』には、貴族の子弟に取り憑いた物の怪を祓うため、下層の子どもが「依り代」として選ばれ、祈祷の場で激しく揺すられ、意識を失ったという記録がある。
これは、呪術的には「成功」だったが、子どもにとっては暴力的な儀礼であり、制度的には何ら保護されない行為だった。
第三節:性的搾取と制度の盲点——記録されない暴力の構造
平安時代の社会において、子どもは性的対象としても搾取の対象となり得た。
だがその実態は、制度の記録にはほとんど現れず、説話や私的記録の断片にかすかに残されているにすぎない。
制度はこの種の暴力に対して沈黙し、むしろ年齢や身分によって「被害者」を不可視化する構造を形成していた。
『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』には、若年の童子や童女が貴族や僧侶の性的対象となる逸話が複数存在する。
たとえば、ある高僧が美童を寺に引き取り、夜ごとに「法の教え」と称して同衾する話がある(『今昔物語集』巻29)。
このような行為は、当時の社会においては「教育」や「加持祈祷」の一環として語られ、明確な加害とは認識されていなかった。
また、宮廷社会においても、若年の女童が「雑仕女(ぞうしめ)」として召し出され、貴族の私的空間で奉仕する制度が存在した。
『延喜式』や『江家次第』には、年齢や容姿に関する選抜基準が記されており、制度的に「若さ」が価値として組み込まれていたことがうかがえる。
これらの女童は、形式上は奉公人であっても、実態としては性的奉仕を含む役割を担わされることが少なくなかった。
こうした構造のなかで、子どもは「教育」「奉仕」「祈祷」などの名目で制度に取り込まれ、人格と身体の境界を曖昧にされた。
制度は、年齢や身分によって「同意能力」や「被害性」を定義せず、むしろ加害の側に立って沈黙を保った。
第四節:教育と疎外——育てる制度、排除する制度
平安時代における「教育」は、現代的な意味での人格形成や普遍的な学習機会とは異なり、身分と性別によって厳しく選別された制度的特権だった。
特に子どもたちは、制度のなかで「育てられる者」と「育てられない者」に分断され、後者は早期から労働力や奉仕者として制度に組み込まれていった。
貴族階層の男子は、一定の年齢に達すると大学寮や国学に入学し、漢籍・律令・礼楽などを学ぶ機会を与えられた。
『延喜式』や『令義解』には、入学資格として家格や官位が明記されており、教育は明確に階層化されていた。
女子や庶民の子には、制度的な教育機関へのアクセスはほぼ存在せず、学習は家内教育か寺院での非公式な教授に限られた。
一方、教育の名のもとに行われた「奉仕」や「見習い」は、実質的には労働であり、しばしば搾取と隣接していた。
たとえば、貴族の邸宅に仕える童子・童女は、「学びの機会」として召し抱えられながら、実際には雑務や使役に従事させられた。
『江家次第』や『類聚雑要抄』には、こうした童子の服装・作法・出仕の規定が記されているが、教育内容についての記述は乏しい。
また、寺院においても、下層の子どもたちは「小僧」として修行に入るが、その多くは実質的に労働力として扱われた。
『本朝世紀』や『今昔物語集』には、寺の雑事に従事する小僧が、過労や病で命を落とす例が記録されている。
これらの死もまた、制度的には「修行の一環」として処理され、労働災害や虐待とは認識されなかった。
第五節:命の価値の崩壊——制度が見なかった死
平安時代の制度は、子どもを守るためには設計されていなかった。
むしろ、子どもは制度の隙間に置かれ、必要に応じて労働力、依り代、奉仕者、あるいは供物として動員された。人格は制度の前提とされず、命の価値は年齢・性別・家格によって変動した。
棄児は記録されず、乳幼児の死は「自然死」として処理された。
依り代となった子どもは、神の器として扱われ、衰弱や死に至っても制度は責任を問わなかった。
性的搾取は教育や奉仕の名のもとに制度に組み込まれ、教育制度そのものが、子どもを選別し、排除する装置として機能していた。
制度は、子どもを「人間」としてではなく、「機能」として扱った。
育てる、教える、守るという行為は、限られた階層にのみ適用され、それ以外の子どもたちは、制度の外で消費され、消えていった。
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