第2巻:河原にて–死体処理と都市の清浄
平安時代、死刑は制度上「停止」されていた。
だが、命が奪われることは止まっていなかった。
その実態は、制度の帳簿の外で、静かに、確実に遂行されていた。
第一節:流刑という名の死刑
死刑に代わって多用されたのが「流罪」である。
伊豆、隠岐、土佐などの遠国へと罪人を送るこの制度は、表向きには命を奪わない処分とされた。
だが、実態は異なる。
護送の途中での「病死」、到着後の「衰弱死」は日常的に発生し、流刑は「死に等しい」刑罰と見なされていた。
とくに、医療も支援もない辺境の地において、罪人が生き延びる可能性は極めて低かった。
第二節:肉刑と検非違使——制度の外での処断
さらに、身分の低い者に対しては、手足の切断などの「肉刑」が行われた。
これは法典上は死刑ではないが、外科的処置のない時代においては、致命的な処置である。
検非違使などの現場担当者の裁量によって、こうした処断が日常的に行われていた。
『古事談』には、検非違使が罪人を拷問し、死に至らしめた逸話がいくつも記録されている。
たとえば、ある盗人が捕らえられた際、取り調べの過程で「自白を得るために」火箸で足を焼かれ、数日後に死亡したという記述がある。
この死は、帳簿上は「拷問中の事故死」として処理され、死刑としては記録されない。
第三節:拷問死と「別当宣」による非公式の死刑
また、検非違使の上位にあたる「別当」は、しばしば「別当宣」と呼ばれる命令を発し、法を超えた処断を命じた。
これは、律令制の枠組みを超えて、現場の判断で死を含む処罰を下すことを可能にする仕組みだった。
制度の帳簿は清潔なまま、現場の手に血を委ねる。
ここにもまた、「死刑なき時代」の死が、制度の外で遂行される構造が見て取れる。
第四節:穢れの管理と死の分業体制
平安時代の都は、死を「見ない」ことで清浄を保とうとした。
その根底にあるのが、「死=穢れ」という観念である。
死は単なる終わりではなく、空間を汚染し、神仏の加護を遠ざける力を持つと信じられていた。
この思想は、制度の細部にまで深く浸透していた。
たとえば『延喜式』には、死者に触れた者が一定期間「物忌(ものいみ)」に入ることが定められている。
また、死体を扱う役職
殯舎人(もがりとねり)
掃部寮(かもんりょう)の役人
などは、社会的に最下層とされ、穢れを引き受ける存在として位置づけられていた。
彼らは、都の清浄を守るために「死を処理する」役割を担わされていた。
第五節:都市設計と死の空間
この空間的な死の分離は、都市設計にも表れている。
- 鴨川の河原
- 鳥辺野(とりべの)
- 化野(あだしの)
- 六道の辻
といった場所は、死体の遺棄・火葬・埋葬のために用意された「死の空間」だった。
都の中心からは外れ、風下に位置し、死の気配を都の外へと追いやるように設計されていた。
制度の上では、死刑は停止されていた。だが、検非違使による拷問死、肉刑による致死、流刑地での衰弱死など、実際には命が奪われていた。
それでも、これらの死は「制度の帳簿」には記録されない。
「死刑ではないから、死ではない」
この欺瞞を可能にしていたのが、「制度と暴力の分業構造」である。
第六節:制度と暴力の分業構造
中央の帳簿は清潔なまま、現場の手に血を委ねる。
- 検非違使
- 流刑地の役人
- 死体処理の下層民たち
彼らが、制度の外で「死を遂行する」役割を担った。
こうして、都は「死なないふり」をしながら、静かに命を奪い続けた。
第七節:流刑地の地政学と「死の外部化」
「死を都の外に追いやる」という制度的意志は、流刑地の選定にも表れている。
伊豆・隠岐・土佐といった流刑地は、いずれも都から遠く、交通の便が悪く、社会的孤立を強いる地であった。
そこに送られた者たちは、制度上は「生きている」が、実際には死と隣り合わせの生活を強いられた。
都の清浄を守るために、死は空間的に分離され、制度の外で遂行されたのである。
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